2010年04月17日

「盛大に釣られる人々」について

Notes

こんな記事が話題になっている。
自民の首相経験者に頼めず…ポーランド国葬に江田議長(朝日新聞)

政府は16日、政府専用機の墜落事故で亡くなったポーランドのカチンスキ大統領の国葬に、江田五月参院議長を代表として送ることを決めた。外国首脳の葬儀には、首相経験者らを送るのが通例だが、「自民党の人に頼むわけにもいかない」(首相周辺)。政権交代の余波に悩んだ末の前例のない人選となった。 (中略)衆参両院の広報課によると、議長が外国首脳の葬儀に参列した例はないという。
ポイントは「前例のない人選」「議長が外国首脳の葬儀に参列した例はない」というところ。ここを根拠に現政権の非礼さ・国際的な常識の欠如を言い立てる人々がネット上に盛大に湧いて出て来ている。というわけで僕なりにこの記事を検証してみることにする。

まず留意すべきは今回のように「外国の元首が任期中に亡くなり葬儀が行われる」というのがかなりのレアケース、つまり誰を参列させるか国際的な儀礼・常識が確立されているようなそういう積み重ねがそもそも存在していないものだということ。殆どは「『元・元首』が亡くなって葬儀が行われる」ケースなのである。したがってこれを中心に検証することにしたのだけれど、「反証」はあっさり見つかった。

まずは元ロシア大統領・エリツィン氏の国葬のケース。さて日本からは誰が参列したか?当時の現首相?「NO」。首相経験者?「NO」。答えは単に「大使」が行っただけ(理由は「間に合う商用便がなかった」。ちなみにこれに関しては後述)。まあそういう意味では「議長が外国首脳の葬儀に参列した例はない」というのは嘘とまでは言えないかもしれないのだけど、それが実は「議長が外国首脳の葬儀に参列した例はない(但し大使レベルなら有り)」の意味ですよというのは少しミスリードが過ぎやしませんかという話だ。

さてエリツィン氏の際は「重量級」を派遣したアメリカだが、お隣の韓国の元大統領・盧武鉉氏の葬儀には駐韓大使しか派遣していない

これについて「盧武鉉氏は国葬ではなく(韓国的には格式の下がる)国民葬」という反論があるかもしれないので念の為予め指摘しておくと、元大統領・金大中氏の「(正真正銘の)国葬」の際でもアメリカが派遣したのは「元国務長官」であって、元大統領経験者でもなんでもない。ちなみに日本はといえば「前衆議院議長(河野洋平氏)」。へえ。外国首脳の葬儀に「(現役の参院)議長が参列した例はない」のかもね、確かに。

というわけで当Blogによる上記朝日の記事の検証の結論。(1)「前例のない人選」/「議長が外国首脳の葬儀に参列した例はない」=「但し大使を参列させただけの例がある」。(2)他の国でも外国首脳の葬儀に大使レベルで済ませる例がある。つまりこの記事の意味するところが「現政権の振舞いが国内的にも国際的も常識ではありえない」ということであるならば、この新聞がどうしようもなく健忘症なのか、この新聞社的には自民党政権やアメリカだけは何をしてもそれが「国際的な礼儀に適っている」ということになっているのか、単に物を知らないのか、或いはその全てなのかという話に過ぎない。

さて、この問題で盛大に朝日に釣られて吹き上がっていた2ちゃんねる界隈のネット右翼の諸氏についてはもう一つだけ。エリツィン氏の国葬の時に大使しか送らずにロシアのメディアに驚きを与えた政権とは他でもない、「安倍政権」であることをお忘れなく。

なお時の外務大臣「(俺たちの)麻生太郎」は

(ロシアへの)便がない時間に(葬儀日程を)発表したとしか思えない。これは多くの人たちに来て欲しくないと考えるのが普通。なんだか(ロシア)国内の政治も難しいだろうなと。(仙台市の外交フォーラムで)
などと「相手のせいだ」と公言しているのだけれども、その後「(当初の釈明であった「間に合う民間の航空便がなかった」を修正し)葬儀に間に合うモスクワ行きの便はあった。人選が間に合わなかった」と認める羽目になった。

事実と違うことを放言してまで、相手のせいにするスタンスの方こそ「非礼」に他ならないと思うのだが。もちろん賢明かつ倫理的にも高潔漢であらせられるネット右翼諸氏のこと。その当時は今回同様それを盛大に取り上げ、批判を繰り広げあそばされたことと僕は信じる。

(追記)
コメント欄・はてなブックマークのコメントで本Entryに次のような批判がありました。
(1)現役の首脳と元・首脳ではインパクトが全く違う(前者の方が断然重要度は高い)
(2)現役の首脳の葬儀へのこれまでの日本の対応例をきちんと検討せよ。

一応答えておきます。まず(1)を認めるとしましょう。しかし前者と後者で完全に区別をする、「全くインパクトが違う」というなら、これまでの日本の対応において現役の首脳が死んだ場合は後者の場合と「明らかに違う」対応の基準・原則(朝日記事で言う「通例」)が貫かれていなければなりません。

そこで(2)の例を検討してみます。当該Entryを書いた際には検討していなかったのですが、特に今回と似ているのはイスラエル・ラビン首相暗殺の例と思われます。ノーベル平和賞受賞者でもある彼が暗殺されたことのインパクトは今回の件に勝るとも劣りません。しかし…

果たして日本から派遣されたのは現役の首相でも首相経験者でもない、外務大臣でした。もちろんG7のうち首脳が欠席したのは日本だけです。ちなみにアラファト氏(パレスチナ自治政府初代大統領)の葬儀への日本の対応についても各自調べてみると良いかも知れません。

要するにこれまでの日本は弔問外交において「現役かそうでないか」に明確な差をつけてこなかったと言えます。その意味では(1)を強調したところで当Entryの反論にはなりません。それは完全に「無理筋」です。ちなみに僕はそもそも「現役かそうでないかでインパクトが違う」という主張そのものが「ナンセンス」だと思うのですが、そう信じて疑わない方がいらっしゃるようで…世の中広いですねえ。

2009年12月15日

「政治性」への感性について

Memo

天皇と中国政府の要人の会見の設定について各紙「天皇は政治的に中立であるべき」・「政治に巻き込むな」と猛反発をしている。それじゃ、天皇の政治利用の最たるものだった1992年の訪中時の社説を幾つか拾ってみよう。まずは読売新聞の社説

もちろん、天皇の政治的利用は憲法上も許されない。政治的権能のない象徴天皇の外国公式訪問は、国事行為に準じる公的行為として内閣の責任で行うべきものだが、国家間の“儀礼”と思ってよい。訪中も個々の政治問題を超越した友好親善訪問とすべきだ。結果として、日中の国民感情に一つの区切りがつき、アジアの安定につながるのは、望ましいことでこそあれ、政治利用ではない。招請に応じないことで日中関係を後退させてはなるまい。
訪中での「お言葉」については、わが国は日中共同声明で「中国国民に重大な損害を与えた」責任を反省していることだし、国民感情を踏まえたお気持ちと平和な世界への願望を表明されるのが自然だ。天皇の政治利用とは別問題だ。
天皇のお気持ちに負担をかけない形で、天皇訪中を実現させたい。
「招請に応じないことで日中関係を後退させてはなるまい」…十数年前は訪中に関して天皇の政治利用なんて歯牙にもかけていなかったことがよく分かる。ちなみに今の読売はこれ。
中国の国家副主席と天皇陛下との会見ごり押しもおかしい。会見申請のルールを無視した「政治利用」ではないか。この時期に、対米、対中国のバランスを考えてもよろしくない。(12月14日付「よみうり寸評」
天皇が時の政権に利用されたと疑念が持たれることは、厳に慎むべきなのだ。その基本を現政権はわかっていないのではないか。(12月13日付社説
まあそもそも「対米、対中国のバランスを考えても」なんてどう見ても天皇の公務を政治的に評価しているところなんかは語るに落ちているわけだけれども、何と言うか…無定見?

次は朝日新聞

過去の歴史を考えると、欧州や米国よりも、中国や韓国をまず訪問するのが筋であった。体制の違いや歴史の後遺症を考えても、遅きに失した感は否定できない。
反対論で気になるのは感情論である。ある若手代議士は、南京虐殺や賠償問題を例にあげて、「何でぼくら戦後世代までがいつまでも、この問題をひきずらなければならないんだ」と発言した。過去の清算は政治レベルの責任であり、陛下に負わせるのは政治利用だとしている。
私たちの考えは違う。戦後世代を含め、いやおうなしに「過去」をひきずっていかざるを得ないのだ。陛下や政府はもとより国民の一人ひとりが歴史の教訓に学ぶ努力を積み重ね、信頼を得ることで、初めて戦前の世代が残した「過去」を乗り越えられるのではないだろうか。
中国人の天皇観は一様でない。「戦争責任者」「軍部に操られた形式的な責任者」など年配者の厳しい受け止め方は当然としても、戦争を知らない世代にはマスコミが報道を避けていることもあって、日本の天皇制はほとんど知られていない。
今回のご訪問は、それが戦前のイメージから新憲法の民主主義の下で、根本的に変わったことを知ってもらう絶好の機会になるであろう。
天皇を日中関係の改善・戦争責任問題の清算というあからさまな「政治目的」に利用する気満々の文章である。ちなみに今はこれ
羽毛田(はけた)信吾宮内庁長官は、相手国の大小や政治的重要性によって例外を認めることは、天皇の中立・公平性に疑問を招き、天皇の政治利用につながりかねないとの懸念を表明した。
日本国憲法は天皇を国の象徴として「国政に関する権能を有しない」と規定した。意図して政治的な目的のために利用することは認められない。
何というか…無定見?

次は毎日新聞

両国は「一衣帯水」の隣国である。しかし、天皇の名の下で行われた侵略戦争が、中国国民の心になお深い傷跡を残していることを認めないわけにはいかない。戦後半世紀近くたったいまも、その記憶は消えていない。
中国側はこれまで何度も天皇訪中を招請してきた。友好と親善を目的とする訪中の実現は、そのこと自体に意義があると同時に、日本が過去の歴史に向かい合い、一つの区切りとする意味をもっている。
宮沢首相は訪中決定の談話で、「中国の国民に新憲法下の皇室を直接に印象づけるまたとない機会となる」と強調している。私たちも両陛下が中国国民の心からの歓迎を受けられるよう願っている。
時の内閣の意向に沿った中国訪問に対して何の疑問も持たないどころか歓迎さえしている。で、今はこう
会見設定の背景には、日中関係を改善・発展させたいという中国側の強い意向があるとみられる。それを受け、米国とともにアジアとの関係を重視する鳩山内閣が会見実現に動いた事情も理解できる。ただ、今回の対応で懸念されるのは、政府内で慣例となっている1カ月ルールを外しての会見設定が天皇の政治利用につながるのではないかとの印象を与えかねないことだ。
しかし、「(会見設定は)国の大小や、政治的に重要かどうかなどにかかわりなくやってきた」(羽毛田長官)との指摘にも留意する必要がある。一度のルール逸脱が今後、時の政権によって恣意(しい)的に拡大される余地を残してはならない。天皇の特例会見は内外の誤解を招かぬよう慎重になされるべきである。
何というか…無定見?

そもそも「国の大小・政治的重要性に関わりなく」などといかに今さらカマトトぶろうが天皇の公務はどうしようもなく政治性を帯びている。現に中国政府が北京五輪に皇族を招待する意向を示したときも政治的な理由で反対した人間が多くいたこと、訪韓についても同様の理由で反対する人間が多いことが既にそれを示している。政治的に中立ならば訪問の要請があったなら平等に訪問すればよい。それこそ「不公平」にならないように。

要するに天皇は既に政治的に中立でもなんでもない。そして僕の見る限り中立性を求められてすらいない。今回の騒動で見えてきたことはマスコミに関わる人たちが「政治性」というものに関して極めて鈍く・乏しい感性しか持ち合わせていないということだ。

2009年11月08日

Twitter

Diary

Twitterをはじめたブロガーがやっておくべきことまとめ

明らかにブログ更新頻度が下がってきて、久々に腰を上げたら140文字以上の文章が書けなくなっていた皆さん
とは僕のことです。

というわけでリハビリを兼ねて登録してみました(サイドバーにリンクボタンも付けておきました)。ちなみに最初にしたのは「anti_deflation(デフレ脱却を求める署名アカウント)」をフォローすること。日銀が自らの意思で…というのは全く期待できないので、菅直人さんが動いてくれたら良いのだけど。今のところ特にやるべき仕事もないみたいだし。

それはさておきTwitterですが…どんなもんでしょうねえ。

2009年11月01日

「マッチポンプ」

Memo

非常に興味深いEntryのご紹介。

〈酒井法子報道〉から考えるメディアの使命(1)

この一連の裁判劇の発端となった職務質問について考えてみよう。8月2日の夜10時半頃、東京渋谷の繁華街を歩く高相祐一被告にうしろから駆け寄った警察官3人が声をかけたことが、今回の一連の覚せい剤逮捕劇の発端である。
しかし、この職務質問から現行犯逮捕に至る場面で、大きな、そして素朴な疑問は無いだろうか。すなわち、渋谷の繁華街で、夜10時半ぐらいに歩く男性(高相被告)に、どうやって警察官3名は「当たり」をつけて職務質問をしたのか――という疑問である。…(中略)…実際には高相被告は、ズボンの下に用心深く覚せい剤の包み(0.817グラム)を隠し持っていたのであって、いくらワインのソムリエ級の嗅覚でも、繁華街の中をわずか1グラムに満たない粉末を誰かが隠し持っているのをかぎ分けることは到底無理だろう。
もう一つの疑問は、単なる「職務質問」が、2時間以上に及んでいる点だ。「所持品を見せて欲しい」と執拗に迫った3人の警察官は、何を根拠に、それほどまで高相被告に迫ったのかということだ。それは、あたかも、高相被告のズボンポケットに、絶対覚せい剤が入っていると確信しているような執念深さではないだろうか――。
至極尤もな疑問だ。そしてこの記事では一部で流れる「内偵説」を説得的に否定した上で警察問題に詳しい弁護士による「種明かし」を行っている。それによると…
その弁護士は、「刑事弁護をふつうに手がけてきた弁護士なら大抵知っていることだと思いますけどね…」と前置きして、現場の警察官が覚せい剤の売人と「手を組む」という方法を教えてくれた。その弁護士に言わせれば、この方法はそう珍しいことではないらしい。
警察官が薬物を路上で売っている外国人を見つける。その手の外国人の多くは日本での在留資格が無いことを知っているので、警察官は次のように切り出す。

「おまえは逮捕しない。その代わり覚せい剤を買いに来る人間を“紹介”してくれ」

売人のほとんどは在留資格がないので日本でまともな仕事に就けない。しかし本国に強制送還されても、本国ではもっと仕事が無い。だから、何としても日本に留まりたい。その弱みに一部の警察官はつけこむわけである。警察官に取り引きを持ちかけられて、売人に「いやだ」という選択肢があるはずがない。商談成立ののち、その売人は、自らの不法滞在と薬物売買を見逃してもらう代わりに、“顧客”を警察官に売るのだという。

警察官にとって、この方法のよいところは、苦労しないで確実に仕事上の実績(ノルマ)を上げることができるという点だ。

逆に売人を端から摘発してしまえば買人も近寄らなくなるから「継続的な」ノルマ達成が困難になる。だから何もせず野放しにし、それを餌にそこに寄ってくる買人をノルマ達成のネタにする。薬物を買いに来た人間こそが実は警察にとってノルマ達成の大切な「顧客」であったという話。

しかし、いつも買人だけしか逮捕しないと、上司から不審がられますし、そうは言ってもその上司も同じことをしていたはずなのですが、検察官や裁判官にも疑問に思われるようになるのもまずいことです。だから、たまには売人を逮捕しなければならなくなります。
売人逮捕は上に対する単なるポーズでしかなく、そしてその上司もその「お約束」を充分に知った上で黙認。ちなみにその警察の親玉さんはこんなことを言っておりましたねえ。
警察庁の安藤隆春長官は20日の定例記者会見で、女優の酒井法子容疑者(38)ら芸能人が薬物事件で相次いで逮捕されたことを受け、「芸能界関係者は薬物事犯を一掃するよう、再発防止に真剣に取り組んでもらいたい」と述べた。

長官は「芸能人の薬物事犯は社会に与える影響が大きく、特に青少年への悪影響が懸念される」と強調。今年上半期の大麻事件の摘発者数が統計の残る1991年以降最多で、20代以下が6割を超えるなど若者を中心に薬物使用が拡大する中、芸能界の薬物汚染に強い危機感を示した形だ。

安藤長官は、芸能界から薬物を一掃する取り組みが社会全体での乱用防止を進める力になる、と訴え、支援する意向を示した。

芸能界から薬物一掃を 警察庁長官が求める【共同通信】

恥を知る人間には到底出来ない言動である。

2009年05月25日

「トロイの木馬」

Memo

「裁判員制度」の広報サイトを見てみた。「裁判員制度の導入理由」の部分は特に非常に興味深いので紹介することにしよう。

これまでの裁判は,検察官や弁護士,裁判官という法律の専門家が中心となって行われてきました。丁寧で慎重な検討がされ,またその結果詳しい判決が書かれることによって高い評価を受けてきたと思っています。
しかしその反面
刑事裁判は近寄りがたいという印象を与えてきた

国民の司法への理解を深める

為に裁判員制度を導入すると。今までの刑事裁判は「丁寧で慎重に検討がなされ」「詳しく判決が書かれ」さらには「高い評価すら受けてきた」のであって何か問題があったわけではない。それは単に「近寄りがたかった」だけで、「国民の理解が不足」なだけなのだ。要するにこのサイトでは裁判員制度とは。

「おまえたちもやってみればおれたちのやっていること(の正しさ)が分かるよ」

という代物だと主張しているわけだ。ちなみに刑法学者の中山研一教授も

法務省も最高裁も、現在の「裁判官裁判」とそれを支える検察と警察の捜査活動を基本的に妥当なものであると評価した上で、これに市民が参加することで刑事司法に対する国民の信頼が得られるというのみで、現状への自己批判が全く見られないところにあります。最高裁は最初から「陪審制」には批判的であり、法務省も「代用監獄」における密室取調べを改革する意思を全く持ち合わせていないのが現実です。したがって、新しい裁判員法が「冤罪の防止」を目的とするとはいっさい公言されていないことを見抜く必要があります。
その証拠に、裁判員法に対する批判(裁判員の守秘義務、取調べ全過程の録画、公判前手続の公開など)には一切耳をかさず、むしろ法相は死刑制度によって社会の秩序が保たれていると公言し、裁判員による死刑判決の悩みにも理解を示そうとしないのです。
と述べているように実際に司法側の改革はほとんどなされていない。代用監獄に代表される「人質司法」批判も、自白偏重批判も、取調べ過程のディスクロージャーの要請も一切無視。改革する方向性は「とにもかくにも分かりやすくする」というただその一点のみ。本当に彼らが司法行政に対する批判について「単に近寄りがたいものだから良くない」としか認識していないのだとしたら…そこに耐え難い腐臭・傲慢さを感じ取るのは僕だけではないはずだ。

ところで国民が参加できるのは一審のみ。上級審では一審の結論は一体どう扱われるのだろうか。ちなみに「痴漢に間違われたら逃げるが勝ち」と奨める弁護士さんは(その他のエッセイも読みましたが相当デキル方だと思われます)

特に東京高等裁判所がメチャクチャで、世界史上で最悪に最強で最低の裁判所と言われている。歴史上のどんな軍事政権下の裁判所より“強い”。とにかくクソもミソも何でも有罪。あれも有罪。これも有罪。みんな有罪。どーでも有罪。絶対に有罪。一審で無罪になったのは、必ずひっくり返す。一審の有罪は当然にそのまんま。そんなわけで、東京高裁だけじゃなく、刑事の裁判官は、「法務省(検察庁)の出先機関」とか揶揄されてるけど、むしろ検察官の方がずっとずっとマシで、最近じゃ、「悪魔の手先」かと思うようになった。
と述べている。さて仮に「疑わしきは被告人の利益に」といった原則論を愚直に裁判員達が実践した時この裁判員制度は「トロイの木馬」となりうるのだろうか?

2009年04月29日

ある種の道徳感情について

Memo

『「時効殺人」賠償が確定=除斥期間適用せず-26年後自首の加害男に・最高裁』のコメント欄に蔓延する殺人を犯した男への溢れんばかりの憎悪の「巨塊」は壮観ですらある。

曰く

賠償以上に、一生苦しめてほしい
殺人犯に魂の安息など与えてはならないはず
時効で捜査が終了しても罪は消えない仕組みになればいいのに
時効によって警察に追われなくなったからといってこいつの罪が消えたわけじゃない
もちろん人の命はお金ではかえられないけど、遺族は生きていることに望みをつないで30年間、苦しみ続けたことを思うと安すぎるよな
この男以前テレビに顔を隠して出てきたのを見たけどその時も反省の言葉は出なかったな。人を殺して何が上告だ。賠償責任は当然の事だ
etc.

殺害されてから26年も経ってから「謝罪と賠償を!」と息巻く遺族に対して同情的なコメントが圧倒的多数なのがなんとも実に皮肉である。特に先の戦争で被害にあった人たちが民事訴訟を起こすと「また金目当てか」との非難が投げつけられるこの国においては。

ex.)「強制徴用被爆者の損害賠償請求、控訴審でも棄却」のコメント欄

こいつらは金が欲しいだけ
おいぼれてもたかり根性は健在か。よくもまぁそんな被害者面できたもんだ
この年になっても「金クレ金クレ」か。こういう人生はいやだねぇ。あさましい

ちなみに西日本新聞によると「一審判決は、強制連行を「国と企業による共同不法行為」と認めたが、行為の発生から20年で損害賠償請求権が消滅する「除斥」を適用し、請求を退け」たもので、控訴審はそれを受けなおかつ支持したものだったそうだが。

「人にひどいことをしておいて逃げ得は許されない」という道徳感情について、この国の人々は「色々な意味で」内省をする必要があるのではないだろうか。

さて最後に毎度おなじみの手前味噌ではあるのだけど僕が書いた過去のEntryを紹介させてもらうことにしよう。

「忘れる」という権利
「被害者の人権」は普遍的か?

(追記)
後で気づいたのですがapesnotmonkeysさんが、迂遠な僕のEntryよりも的確に核心に切り込んだものをupしておられるので紹介させて頂きます。
「除斥期間」についての最高裁判決について

2009年04月11日

「卵」と「壁」について

Thinking

せっかくpavlushaさんに言及をして頂いたので前回のEntryについてもう少し続きを書いてみたい。

イラクで殺害された香田証生さんについて今一度考えてみる(僕はかつて彼についてEntryを書いたことがある)。彼は「単なる旅行者」だった(おそらく犯行グループにもそう主張したことだろう)。ところで、彼について言及した人たちはどうそれについてどう考えたのだろうか?ある人たちは「自分探しの旅にあんな危険なところに行くなんて愚かだ」と非難した。けれどもなぜそのような批判が成り立つのだろうか?

―日本はアメリカの肩を持ってイラクに軍隊を派遣している。とすればアメリカに反感をもつ人たちにとって見れば彼はイラクを攻撃する敵国の人間である。敵国の人間が無防備に戦地をうろつけば「ただの旅行者などと主張」しても通用するはずがない。本人が本気で「ただの旅行」という認識であったのならばただの愚か者である(また「ただの旅行」という言い訳が通用すると思っていたのなら極端に認識の甘い、やはりただの愚か者である)。―

彼がいくら自分の認識を正しく述べようと、彼は自分の行為がどのように解釈されるかを弁えるべきだったのであり、そこにこそ「殺されるのも自己責任」と非難される余地が生じたのだ。このように「事実」を述べたところで、本当にただの旅行をしたかったとして、その行為を実行に移せばそのまま受け取られないことがある。そしてその「受け取られないこと」について、命を賭した重大な責任を問われることがある。実際に彼を「自分探しとは!」・「自己責任だ」と批判した人たちは、彼の「その弁えなさ」について死に値すると評価したわけだ。

僕たちの身の周りには言動・行為がそのままストレートに交換されないようなある種の「場」が特定のあり方で構造化されている。前回のEntryではその「場」の存在を指摘した。そしてその場のあり方をきちんと弁えることが「人」には求められる。仮に香田さんが年端も行かない子供だったと考えてみよう。彼がその「弁えなさ」に関して「自己責任」を問われていたかどうかは疑わしい。戦地で犠牲になる子供がしばしば「何の罪もない」と形容されるのは故なきことではない。

さてここで少し話を変えて今度は宅間守(もしくはムルソー)について考えてみる。彼についてもかつてEntryを書いたことがある。彼らが激しく批判されたのはその動機が犯した殺害行為に「全く見合っていない」ということだった。普通の「人」は彼らが述べたような理由では殺人を犯さないとされている。だからこそ彼らは激しく批判されるべき「人でなし」なのである。「人」として扱われるには「なぜそのようなことをしたのか」・「なぜそのようなことを言ったのか」という問いについて「適切に」答えられなければならない(ちなみに加藤智大はその問いにある意味「適切に」答えられたようにも見える)。

「太陽がまぶしかったから」・「たんに旅行がしたかったから」という理由で行為を実行に移してしまうことは、仮にそれが真実であったとしても、いやそれだからこそ重大な責任を問われることになるのだ。「人」である僕たちには「適切な答え方」を弁えていること、かつそれを内面化することが求められているからだ。

けれどもその「適切さ」がなんであるのかを前もって知ることはもちろん常には出来ない。その「場のあり方」を常に弁えていること、内面化することが可能なわけでももちろんない。それはスタティックに構造化されているわけではないからだ。永山則夫の告白=答えに今世間から共感を呼ぶ力があるとは思えない。場は変化しながら存在する。さらにその変化は何ものかが外在的に齎すものではない。場を通してコミュニケーションに参与する「人」によって・人為的に変えられていくものだ。ちなみにその変化に取り残されることは常にありうる。僕たちは自身の行為や言動の波及効果が、如何なるものであるかを常に完全に予想することは出来ない。

予想も出来ない波及効果に直面した時僕たちは「そんなつもりで言った(やった)のではない」と主張するかもしれない。その時僕たちは自分がどうしようもなく「個」であり「卵」であることを自覚するだろう。とは言え「壁」は「卵」が作り上げたものでもある。その意味で

「卵」と「壁」は、決して別々のものではない。しばしば同一人物が両方になり得る。今の私自身も、やはり両方の契機を兼ね備えているはずだ。

に僕は完全に同意する。

いずれにせよ。そのありようを批判するにせよ、肯定するにせよ、内面化するにせよ、ある種の「場」・「ザ・システム」・「壁」はきちんと存在している。そしてシステムは変えられるけれどもシステムそのものを廃棄できるわけではないのだ。

2009年03月01日

デマを指摘することの意味

Thinking
ここに一組の夫婦がいる。彼らは浮気をしてもいいということを暗黙の内に認め合っている。もしいきなり夫が、進行中の浮気について赤裸々に告白したら、当然ながら妻はパニックに陥るだろう。「もしただの浮気だったら、どうしてわざわざ私に話すの?ただの浮気じゃないんでしょ?」何かについて公に報告するという行為は、中立的ではありえない。(…中略…)秘密の情事についてたんに何も話さないことと、それについて何も話さないと公言することとの間には大きな違いがある(「いいかい、ぼくには人間関係すべてを洗いざらい君に話さない権利がある。ぼくの人生には、きみにはまったく関係のない部分があるんだから」)。後者の場合、暗黙の約束が明るみに出たとき、かならずやこの宣言そのものが更なる攻撃的なメッセージを発することになる。
学問の世界で、同僚の話がつまらなかったり退屈だったりしたときの、礼儀正しい反応の仕方は「面白かった」と言うことである。だからもし私が同僚に向かって正直に「退屈でつまらなかった」と言ったとしたら、当然ながら彼は驚いて言うだろう。「でも、もし退屈でつまらないと思ったのなら、面白かったといえばいいじゃないか」。不幸な同僚は正しく見抜いたのだ。-この率直な言明には何かそれ以上のものが含まれている。そこには自分の論文の質に関するコメントだけでなく、自分の人格そのものに対する攻撃が含まれているにちがいない、と。

同様に「デマであると認識していること」と「デマであると公言すること」はまったく異なっている。上記のS.ジジェクに倣って考えてみよう。

ラカンはこう読め!
交際している女性がデートの待ち合わせの時間であるはずの午前9時に5分遅れてきた時、彼女がその言い訳として「ごめんなさい。低血圧で朝が弱くて起きられなかったの」と言ったとしよう。その時あなたが「低血圧が原因で朝起きられない、というのは医学的にみて何の根拠もない(=デマである)」と返答したとすれば、彼女は「つまりは彼は『私を許さない』というメッセージを発しているのだ」と考えることだろう。

合コンの席で血液型による性格診断で他の出席者が盛り上がっている最中、話が自分に振られたとき、「血液型による性格診断は何の科学的根拠もない(=デマである)」と述べたとしたら、「つまるところこの人はこの席が取るに足らないくだらないものであると主張している」と受け取られることだろう。

繰り返すが、「科学的に間違っている」と認識していることと、それを公言することの間には大きな違いがあり、それは「デマをデマと指摘しただけ」などといった「中立的な行為」ではありえない。そして僕たちはそのことを「通常よく弁えている」のである(たった5分の遅れを低血圧のせいにする彼女や合コンで血液型の話で盛り上がる人たちに、あくまで「それはデマである」と主張すればどのような結果を齎すか、僕たちは「通常よく分かっている」)。

先だって「ある評論家が歴史修正主義に実質的に加担した」と批判された論争において、彼を擁護しようとした側のある人間が「東京大空襲はおろか昨日の事さえもあったかどうかは定かですらないはずだ(確かな根拠はないはずだ)」→従って「南京事件はあったと断言することは自分には出来ない」旨を主張した。

なるほど彼自身「十分前世界創造論者」もしくは「懐疑主義者」であるというわけだ。が、彼がすべての事実命題について「かどうかはわからない」などとコミットし続けているということがありえない以上、本当の問題は、「何故その文脈であなたは自身が懐疑主義者であることを強調するのか」ということなのである。そして「南京事件に関して、自分は懐疑主義者であるので、あったかなかったかについてはわからないと言わざるをえない」と述べることが、通常どのような(政治的)効果を齎すか、やはり僕たちは「通常よく分かっているはず」なのである。

僕が「南京事件は存在した(南京事件否定論はデマである)」、「従軍慰安婦問題について日本は責任がある(従軍慰安婦否定論はデマである)」と公言するとすれば、改正国籍法批判論は悪質なデマであると公言するとすれば、或いは光市母子殺害事件の被告人の弁護団は懲戒請求に値するという批判はデマであると公言するとすれば(そのいくつかについてはこれまで実際にしているわけだが)それはたんに「デマだから」ではありえない。そのコミットメントは、「私はそれを有害だと見做す」という、「より攻撃的」・「政治的」主張を意味するのだ。

2009年01月13日

麻生太郎の経済観について

Memo

田中秀臣先生のこのEntryは非常に興味深い

僕はいまの景気の減速がかなり深刻だと思っている。これはあとで追加して書くが、日本銀行とFRBの政策の違いの究極的な理由にもなるのだが、日本の政府は事実上、日本銀行との政策協調に失敗している。もちろん当事者は失敗しているとは絶対に認めないだろう。しかし景気減速(しかも多くの政府関係者はお馴染みのレトリック「100年に一度」を使っているので相当深刻な意識をもっているのだろう。まあ、ただいってるだけ、という可能性もある)に対して、政府と日本銀行は協調しては本当に何もしていない。

例えば現状で、日本政府と日本銀行が政策について直接議論ができる場は、経済財政諮問会議しかない。久しぶりにこの会議の要旨をさきほどみて愕然とした。まったく日本銀行の取り組みについて言及はないのだ。メインテーマは毎回、財政再建だけ! 「100年に一度」の不況がメインテーマになることもない。(…中略…)
http://www.keizai-shimon.go.jp/minutes/2009/index.html

上は直近の会議だが、やはりテーマは財政再建(…後略)

この期に及んで財政再建がメインテーマとは!僕は二重の意味で驚いた。もちろん一つ目は「100年に一度の不況」との認識の下にもかかわらず「景気」が問題にならないことの異常さ。もう一つ目は麻生太郎の経済観の不可解さである。というのも麻生は4年前、定率減税廃止案が持ち上がった時(実際に既に廃止)こう述べていたからだ(僕もその時のことはEntryに書いた)。

「景気回復の芽を摘んだ元凶は大蔵省(現・財務省)の財政再建原理主義。景気に与える影響を考えずに同じことを2度も3度もやったらアホだ。悲劇を通り越して喜劇だ」

常識的に考えれば「100年に一度の不況」・「異常事態」の時にこそ「景気の判断なしに増税の話はいかがなものか」と主張すべきのはず。「経済の麻生」とのことだが一体彼の真意はどこにあるのだろうか?この状況下で消費税増税に言及し始めた時点でどうにも不可解だと思っていたのだけれども、それにしても言っていること・かつて主張してきたことと今総理大臣になって行おうとしていることにギャップがありすぎる。本当に単なるマンガバカだったというオチは止めて貰いたい。

(追記)
蛇足だけれども。「定額給付金」について。確かにあまり効果の見込めなさそうな政策だが、これを多少なりとも効果的にする案が実は僕にはある。それは「所得制限」を行ってバラ撒くのではなく、「思想制限」を行ってバラ撒くというものだ。

前回のEntryではインターネット上に湧いて出た「タバコ、酒などのはした金でさえケチケチして貯金に回せ」という「貯金フェティシズム」に脳髄まで侵された人々を多数紹介した。こんな人々にばら撒いてもそれこそ給付金は「ムダ」に貯金に回るだけなので止めたほうがいい。それよりもきちんと消費してくれる人、例えばそう、「派遣村の人たち」により多く回した方が多少なりとも効果は上がるだろう。有効需要の創出が国家としての喫緊の課題であり、何よりも景気の回復が重要なこのご時世、貯金フェチのような「反日主義者」(しかも彼らはそれを布教しようと熱心にインターネット上で「異教徒」をバッシングするからタチが悪い)など保護する必要は全くない。

2009年01月08日

「叩くこと」こそ目的?

Notes

インターネット上では「趣味・嗜好に少しでも支出する人間はその時点で支援を受ける資格がない」ということになっているらしい。

「派遣村 タバコ」「派遣村 煙草」「派遣村 酒」(Google ブログ検索より)

さておそらくこの不況は、派遣社員のみならず、早晩正社員のクビきりという事態を生じさせるだろう。気をつけた方がいい。まさかとは思うが、いまあなたは煙草はもちろんのこと晩酌さえも当然控えていることだろう。そんなことをしていたら困った時に助けられる資格を失ってしまうのだから。

煙草や酒に費やす金と時間があったらいくらでも資格を取ることも住居を見つけることも貯金することも出来るらしい。ちなみに日本人が吸うタバコの本数は平均で約7本/日なので(派遣村の人がその平均だとして)それで節約できるお金は約100円/日。3000円/月である。…なるほど。

…議論を進めよう。まさかあなたは普段晩御飯に肉や刺身などを食べてはいないだろう。そんな「贅沢」をする余裕があれば、食事は全て即席麺にすれば(牛丼などもっての他である)その分貯金や資格取得にいくらでも支出できたはずであり、それを怠るような人間には救いの手は一切差し伸べられる必要はないからだ。

さてこの論理に従えば手を差し伸べるべき人間はいなくなってしまう。僕は以前こう書いたことがある

けれどもそもそも「本当に困っている人」というのは誰なのだろうか?どんなに困っている人であっても生活の中で何らかの切り詰める余地、生活上の無駄を省く(経済的な話だけではなく、時間の使い方を含めて)こと、或いは選好の不適切さを指摘することはおそらく常に可能だろう。とすればほとんどの人間・或いはもしかしたら「本当に困っている人間」など誰もいない、という結論さえ導くことが出来そうだ。

リソース有限論は、理想の「本当に困っている人」(「非の打ちどころの無い被害者」と言い換えても同じことだが)の追求につながり、得てして「本当に困っている人」の「イデア」が作り上げられることになりやすい。難点はそれが現実には存在しそうもないことであり、利点は「困っていると訴える」人の粗探しをしてどこか一つでも難癖を付けられればリソースの分配を拒絶=節約できるということである。

リソース計算が不必要だと言いたいのではない。ただ、完璧なリソース配分がありえず、完璧なリソース計算がありえず、完璧な弱者・非の打ちどころの無い被害者が存在し得ないことを弁えないリソース有限論はいくらでもそれを節約し、弱者に配分しない為の正当化の口実になりうる(もっと言えばそれに「しか」なりえない)ということ、また自分の意に沿わない弱者・被害者を拒絶する為「だけ」の方便となりうることは指摘しておきたい


ほとんど訂正する余地を感じない。というか「そのまま」である。

この論理を振りかざす人にとっての「手を差し伸べるべき人」というのは誰なのだろうか?「ヤル気のある人」?なるほど。でも誰がどうやって判別するというのか?その基準は何か?食事は全て即席麺で、趣味は持たず、常に資格取得と貯金に励んでいる人か?(繰り返すがそんな人間は存在しない)それとも「結果」=「今派遣であっさりと首を切られたということは所詮その程度の仕事に就く努力しかしていなかった/本気なら働き口はあるはずであり派遣村にいるということ自体がヤル気のない証拠」から判断する?(この場合も救うべき人間は存在しない)

その論理を得意げに振り回す人は結局のところ「(自身は)ぬくぬくとパソコンの前でいるだけで、お前のことは何一つ知らないし、知りたくもないが、とにかく私はお前が不快だ」と言っているに過ぎないようにすら思われる。もう一つ見てみよう

・年末年始に就活市場が休みである事を知らない
・雇用保険は日雇いや短期間派遣では入れない事を知らない
・中高年しかも工場派遣とかやってるような層でもこの不況時にたった1ヶ月で次の仕事が決まるのが当たり前だと思っている
・住居が決まるのも当たり前だと思っている
・人材募集している企業は応募して来た人なら誰でも採用する筈だと思っている(良い人材が応募して来なければ一人も採用しない事も多いとは考えない)
・生活困窮しても親兄弟が助けてくれるのが当たり前だと思っている
etc

いくら何でも世間知らず過ぎじゃなかろうか。


おそらく知識の有無が問題なのではなく、そのようなことにはそもそも関心がない・知りたくないのではないだろうか。この手の人たちにいくら「派遣村にいる人たちには事情があったのだ」と説明しても彼らは決して満足しない。「そうは言っても」と派遣村にいる人たちの「甘さ」をそれ以外のどこからか探してくることの方に寧ろ躍起になるからである。これに対する反応はその好例である
だってさ、その辺きちんと認識してたら法律とか行政とか以前に自然と自己防衛に走らない?

もちろんこれは上述のように無意味な結果論(派遣村にいるということは当然しておくべきことをしなかった人間だから救う必要はない)、「もっと何か出来たはずだ」という無内容な一般論に過ぎないのだが、ここまでくれば彼らはそんなものに固執してでも「とにかく叩き続けたいのだ」と考える他はないのではないだろうか。

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