「ネタ」と「ベタ」というタームを最初に使い始めたのは宮台さんだったように思う。で、つい先日に出た北田暁大さんの「2ちゃんねる論文」の影響もあって、それは社会学的分析が好きな人たちにとっては必須のキーワードとなりつつある。ちなみにこれの一般的な用法は「××が~と主張するのは、あえて(ネタで)言っているのであって、真の意図は―なのだ。~を額面通り(ベタに)受け取るべきではない」みたいな感じ(だと思う)。
でも今や「自分はネタだと分かってると思って言ったのに、ベタに受け取るなんて、受け取る方がバカだ」みたいな文脈で使われ始めるようになってきていて、僕はものすごく嫌な感じがしている。「ネタ」を理解するにはある種の前提・知識が要求される(ex.日本語が分からなければ、漫才で笑うことは出来ない)。それを利用して、相手に対してその「知識の欠如」を嘲り、自分が相手より優位に立つ為のツールとして、このキーワードが使われ始めているのだ(これをネタとして享受出来る頭の良いボク、といったところか)。
さらに言うと東さんの提起した「動物化」という概念・キーワードも「ネタとベタ」ブームに一役買っているようだ。ある種の事柄についての常識とされていたような前提・知識・背景・歴史を知らない人たちが、その事柄をベタに享受しているのを「動物的な愉しみ方」として冷ややかに見る、みたいな感じかな。ところが当の東さん自身はこの「ネタとベタ」ブームが気に入らないらしい。そりゃそうだと思う。彼のデビュー作「存在論的、郵便的」という本の出発点はまさに「ネタとベタ」/「マジとアイロニー」/「ほんとうの意味とそうでないもの」の区別は不可能だ、というところにあるんだから。
ちなみに僕はネットを徘徊している途中面白いものに出会った。現在のブームの先導役、宮台さんの「東浩紀を語る!」とかいうインタビュー記事だ。
ここでは宮台さんは「吉幾三のウインナーコーヒー」を例に挙げながら、システムがうまく回ることが大事で言葉の本当の意味とかは関係ないと何度も言っている。吉幾三は客から「ウインナーコーヒー」の注文を受けて「ウインナー」と「コーヒー」を出した。客はそれを美味そうにたいらげて帰った。ちゃんとコミュニケーションは回っている。何も問題はない。ここには「いや、ほんとうのウインナーコーヒーとは…」などという話が入る余地はない。
「ネタとベタ」の区別には超越論的審級が要請されるわけだけれども(これは正しくてこれは間違いと交通整理をしてくれる絶対に正しい存在)、そんなものは存在しない。確かにこの世界にはネタなのかベタなのか/嘘かまことか/マジかアイロニーか、決定の出来ないことは色々あるけど、そんなものはさして重要じゃない、どっちだって良いんだ。どちらであれきちんと破綻せずにシステムが回れば良いんだ、というのが社会システム論の立場だ、と宮台さんは言う。つまり彼はかつて明確な「ネタとベタ」否定論者だったのだ。
ちなみに仲正昌樹さんは、宮台さんがブルセラ論争で「君、現実を知らないだろ? 僕はフィールドワークをやって、そういう人たちと話をして分かってるんだよ」という論法を用いているのを聞いて嫌な気分がしたという話をしている。
僕個人としては、宮台さんは、一方的な現状認識と「あるべき論」を振りかざすオヤジ世代に対抗する為に、「でもフィールドワークしてみたらこんなこともあったよ」と言って別の可能性を示すことで、どちらが正しいかは「決定不可能」なんだというところに論争を持っていこうとしていたんじゃないかなあという気がしている。でもそのフィールドワークの話を「マジ」に「ああ、ほんとうの女子高生の実態ってそうなってるんだ」という受け取り方をした人がいたとしても、それはその人がバカで、「俺が一番宮台さんをわかっているんだ!ゲーム」で僕が一歩先んじているというわけじゃない。そもそもそのゲームには勝ち負けが存在しない。そうやってコミュニケーションは回ったのね、ということで話は終わりなのだ。
そういう意味で、それを一番分かっていたはずの宮台さんがなぜ「あえて…ゲーム」から降りようとしないのか、という北田さんの疑問については僕も全く同感。個人的感情としても「アイロニーが通じないのはバカが多いせいだ」とか言うの本当にやめてほしいんだよなあ。だってさ、僕自身例えば、ああいう人たちが言ってることの字面追うだけで、いっぱいいっぱいの人なわけで、「これを読み取らないお前が悪い」とか言われるとほんとに困っちゃうんだよね。
ちなみに山形浩生さんの「たかがバロウズ本」にも、文芸批評とかやってる人の、どうだ!オレはこの小説からこんなことまで読み取ったぜ、と言わんばかりの無理矢理ひねり出したような理屈って、本当に意味あるの?みたいなことが書いてあって、それに「ベタに」喝采してしまったクチなのですよ、僕は。

