映画「ワールド・トレード・センター」の宣伝を見て思うのだけれども「セプテンバー・イレブン」を語るのになぜアメリカ人はいつも「消防士」の物語を持ってくるんだろうか。
「命の危険も顧みずに現場に飛び込み、救助活動を行った」というように、少なくともアメリカでは、消防士は「勇気」の象徴であり、命を恐れない英雄として表象するようだ。でも、あの事件を「消化」するのに勇気とか、英雄とかを持ってこざるをえないアメリカ人はやはり屈折しているのかもしれない。ほとんどの消防士は、英雄云々なんて考えていなかったと思うからだ。
あの時ビルがあんな風に粉々に崩れるなんて誰も思ってなかった。消防士にもビル全体が崩落寸前であることなんて伝わっていなかったし、退去命令も伝わらなかった。彼らがおそれを知らずに勇敢に振舞った理由は簡単だ。彼らは単に「知らなかった」のだ。彼らはアメリカを救った英雄というよりは、その他の死亡者と同じ、単なる犠牲者に過ぎない。
一方テロリストは違う。彼らは自らの大義のために命を賭けた。自分たちがどうなるか、十分に知りつつもそれに賭けたのだ。とすればソンタグが語ったようにそれを「臆病」と形容することは出来ない。テロリストこそ自分たちが信じるものに、その「道徳的正しさ」はさておき、あえて「殉じた」からだ。
アメリカが「ワールドトレードセンター」を語る際に「テロvs英雄的な消防士」の物語を妄想してしまうのは、おそらくそうでもしないと、テロリストと釣り合いが取れない、とアメリカ人が無意識に考えてしまっていることを示す。「アメリカには卑劣なテロリストに屈しない」。「アメリカはあんなテロには負けない(負けていない)」。「それを証拠に、ほら、僕たちの側にもこういう命を賭けてテロと戦った消防士がいるんだ」。
大義に命を賭けるものが実在することを目の当たりにした時、彼らは怒りや嫌悪ではなく、強烈な「畏怖」抱いてしまったのだろう。そのトラウマが、対抗する物語を欲望させるのだ。その意味でかつて紹介したのだけれども岡崎乾二郎の「倒錯されたテロリズム」は興味深い。自分たちに「畏怖」を与えたテロリストに「shock and awe」を与え返せ、というわけだ。彼らが与えたかったものが「悲しみ」や「恐怖」ではなく、「畏れ」であったこと、そのことこそがこれを傍証している。
これと日本における特攻隊を絡めてもう少し考えたかったのだけれども、忙しいのでとりあえずこんなところで。続く…?(かどうかは分からない)

