前回のEntryでは、被害者が非の打ち所のない・何も責めを負うべきところのない人間であったとしても、彼らが共感・同情心を世間から調達し続けられる保証はない、従って「被害者の人権の保障」を巡る「ゲーム」は被害者にとって苛酷である、という主張をした。
今回はもう少し踏み込んでみる。
藤井誠二はこのようなことを言っている。「愛する家族が殺されたら、復讐したいと思うのは当たり前」であり、それは「ごく当たり前の人間の感情や情緒」であると。
ここで先に結論を言っておく。僕は「そうは思わない」。
なぜなら人間は「忘れてしまう」生き物だからである。激しく恋焦がれる「感情」も月日と共に消え去っていくのが普通だし、愛する人が目の前で死ぬ絶望感のそのありありとした生々しさでさえ時間が奪い去ってしまう。憎しみも感情である以上またそうである。藤井が「人間としてそれが当たり前」という論理で押し通そうとするのなら、僕にもこう言う権利はあるはずだ。そのような感情もいつかは忘れてしまうのが人間として「当たり前」だと思うと。
「愛する家族を惨殺した加害者を激しく憎む」というのは確かに犯人逮捕直後はその通りだろう。けれども僕はその激しい感情さえも時間が押し流してしまうものだと思う。愛や悲しみが薄れるのなら、憎しみだけは特別な例外であるとする理由が僕には見つからない。
さて本村氏について言えば現在妻子が殺されて8年である。生後間もなくだった子供はもちろんのこと、妻についてでさえ交際期間を含めても一緒に過ごしたよりもはるかに長い時間が既に経とうとしているわけである。僕はこう思う。「当時の激しい悲しみや燃え盛る憎しみを忘れるにそれは十分な期間であり、仮にもしあなたが忘れてもそれは人間として全く自然なことである」と。実際感情どころか彼は子供の声などについてすら既に忘れかけてしまっていると述懐している。
本村氏が、加害者に対する激しい憎しみを維持せんとするには、「当然」であるどころか逆に途方もないエネルギーが要るのではないだろうか、と僕は思う。加害者が記したとされる本村氏や被害者を侮辱する手紙、そして彼を支援する弁護士たち、死刑廃止運動に携わる人々というように、ほうぼうから薄れゆく憎悪のリソースを何とか調達しながら、必死にその感情を維持してきたというように僕には見える。それが殺された妻子に対する責任であると信じながら。
もちろん、僕は本村氏に「無理をするなよ」などと言うつもりはない。彼には彼の生き方があり、彼の信念があるだろうから(或いはもしかすると彼は本当に感情が持続しているのかもしれない)。彼の生き方にとやかく言うつもりは一切ないことは明言しておきたい。
しかし世間や藤井のような「部外者」は別である*1。彼らの勝手な「人間として当然云々」の論理を僕が受け入れなければならない理由はない。全ての被害者が当然に、事件からいつまでも常に憎しみ・復讐心をたぎらせることが出来るなどいう(僕からみれば)浅薄な論理に同意する必要はない。*2僕は「被害者」には忘れるという大切な権利(ととりあえずあえて呼んでおきたい)があると思うからだ。
ちなみに僕も先日藤井の本を含めて犯罪被害者の本とされるものを種々手にとって読んでみた。意外と言うべきかやはりと言うべきか、そこには犯人に対する直截な呪詛の羅列は思ったほど見受けられなかった。寧ろ周りの無理解、マスコミの取材のあり方、司法・行政の不備によるダメージが彼らにとって相当に大きいという印象を受けた。
*1
細かいことを言えば、仮に本村氏であっても、彼の主張・彼の思いが「全ての被害者」の心情を代弁しているわけではない。彼も自ら当事者となった事件以外は、基本的には「部外者」であるはずである。
*2
もちろん彼らもぼくの「当たり前観」に同意する必要はないわけだが。とは言えこれはもちろん「謙遜」であって、僕は自分のこの「当たり前観」が、彼らのそれよりも、「はるかに」説得力を持っていると確信している。


Comment (9)
僕は死刑制度や、さらに昨今の厳罰化への要求についてとくに賛成しているわけではありませんが、今回の記事に関しては一般的な観点から少し疑問を覚えました。
deadletterさんが書かれた「忘れる」という契機は、実際にはかなり「許す」という契機に近いものであるのだと思います。
そしてそういう意味での「忘れる」に関しては、人間というのは良くも悪くも象徴によって織り上げられている存在ですから、「忘れる」ための「作法」というものが存在します。
だれでも覚えのあるように、ほんの些細なことであっても「作法」がちゃんとなっていなかったがためにいつまでたっても腹立たしさを「忘れる」ことができない、ということはしばしば起こります。
ましてやそれが深い傷跡を残すようなものであれば、そこでは相応の「作法」が要求されることになります。
たとえば戦争に関する記憶においてはそういった事態が極端に現われるものであり、日本はその「作法」をちゃんと踏まえていないからなかなか「忘れて」もらえないわけです。
僕としては、そういった「作法」の次元を無視して、「そもそも人間というのは忘れる存在であるのだ」と一般化してしまうという姿勢には疑問を覚えます。
社会的な努力としての「作法」を確立するまでは、被害者側も加害者側も忘れることはできないし忘れてもいけないのだ、と僕は理解しています。
裁判というものは、「忘れる」ための「作法」を社会的に担保する場であるのだろうと僕は理解しています。
とすればそこでは、ある出来事に対する裁判の特定の経過が、適切な「作法」であるのかどうかという点については、当然ながらさまざまな議論が可能であろうと思います。
また「忘れる」という目的からして、「死の要求」という「作法」が原理的に矛盾するのではないかという議論もまたありうるでしょう。
その辺に関しては、僕にも明確な結論はありません。
僕としてはただ単に、人間は忘れる存在であるということ、その「忘却」にはポジティブな意味もあるということを主張する際には、その「忘却」には必ず「作法」がともなうのだということを脱落させてはならないのではないか、ということだけを述べておきたいと思ったのでした。
長々失礼しました。
Commented by: voleurknkn | 2007年08月03日 10:06
日時: 2007年08月03日 10:06
voleurknknさん。コメントありがとうございます。
「忘れる」ということをどのように考えるべきか、という問題はこのEntryを書いてからもぼちぼちと考えていて、まだ生煮えの状態です。で、コメントを受けましてどのように応答すべきか少し考えたのですが…
まず上記のEntryで触れた「忘れる」=「許す」としてしまえば、仰ることは理解出来なくもないです。「許すには作法が必要」も分からないではない。
しかし僕はそもそも「許す」=「忘れる」であると考えていません。例えば「許せる」のは被害者だけであって、加害者は「許す」ことが出来ない。しかし加害者は当然のことながら「忘れる」ことは出来る。同様に僕は被害者も「忘れる」ことがあるはずだと言っているわけです。
「社会的な努力としての「作法」を確立するまでは、被害者側も加害者側も忘れることはできないし忘れてもいけない」…「忘れるな」とか「記憶せよ」というのは、つまり「責任の次元」のお話です。が、僕が念頭においているのは例えば、なぜ被害者が常にそれを引き受けなければならないのか?といったことなのです。
僕はその手の「責任」を自明視する議論を括弧に入れて、この問題をもう少し考えてみたいと思っています。
Commented by: deadletter | 2007年08月03日 11:19
日時: 2007年08月03日 11:19
deadlletterさん voleurknknさん
忘れるという作法という視点は面白いですね。
このテーマは考えれば考えるほど思考が拡散してしまいコメントがむずかしいです。
通常、私たちは忘れるという言葉を、忘れてしまった、とかつい忘れてしまう、もう忘れてしまった、という具合に、忘れるという能動的かつ規範的な側面を忘れてしまっている。
むしろ、作法という意味では、忘れない作法あるいは記憶する作法というふうに考えるように思うからです。
そこで先鋭化するのは、加害者をモンスターとして記憶することの是非だったりしますね(exナチスの記憶をどう保存するか)
しかし、いやいや、この問題は面白い。
確かに忘れるという作法あるいは忘れるという知恵、共同体な認知プロセスはあるし、しかもそれは、メモリアルという作法と実は表裏をなしているといえるでしょう。
49日からはじまる法要の規範もそうですし、祝祭空間における精進落としもそうでしょう。
忘れるということのポジティブな側面をメモリアルとして集合的な記憶のフォルムにしなかった部分として着目する、という考えがあってもいいのかなと思いました。
Commented by: swan_slab | 2007年08月03日 12:45
日時: 2007年08月03日 12:45
ネット彷徨の通りすがりですが、興味深い思考のかけらをいくつか見つけた思いがしました。
人は忘れるのがふつうなんですよね。忘れるからラクに生きていけるし、逆に、忘れないようにもがいてみたり…。
話を脱線させるようで申し訳ないのですが、最近私が強く考えていることが「インターネット社会は『忘れて』くれない。これが人に与える苦しみってものすごいんじゃないだろうか」ということでして、現代人においてこれほどの苦(←仏教的な意味で)はないのでは?いやもっと言えば、現代人であるからこその新しい苦、とすら思うようになっています。
こういうことを考える人になかなか出会わないんで、こちらの「忘れる」談義に引き寄せられてしまいました。ホント興味深いです。
Commented by: R.KEMPE | 2007年08月30日 08:16
日時: 2007年08月30日 08:16
R.KEMPEさん。「改めまして」コメントありがとうございます。
インターネットと「忘れる」ことの関係についてはもう少し考えてみたいと思っています。インターネットにおける複製の容易さ=キャッシュの残存が「記憶」の問題に何を齎すのか、ということですよね。
ちなみに実は僕は今はあまり変わらないのではないかという感触を持っています。
Commented by: deadletter | 2007年08月30日 11:22
日時: 2007年08月30日 11:22
こんにちは
しばらくぶりにのぞいてみましたら、「ネット上の記憶」という個人的に興味をもっているトピックに触れられていたので書き込ませていただきます。
最近はネットから姿を消してしまったようですが、「ことのは」を運営していた松永英明氏にまつわる騒動がしばらく前にありました。僕はその騒動を目にして、「インターネット社会は『忘れて』くれない」ということに関連して強烈な印象を覚えたのでした。
そのことについてブログ記事に書いたこともありました。
http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20060314
僕は記憶というのは原理的に集団的なものであると思っているのですが(ただしモーリス・アルヴァックスとは別の発想で)、それにしても例の騒動に関する集団的な記憶のフラッシュバックの速度というものには、やはりある種の恐ろしさを感じずにはいられませんでした。
つまり、何らかの点でこれまでにはなかった事態が出現しつつある、という感想を持ったわけです。
まだ感想以上のことは言えないわけですが。
なお、せっかくなので以前のトピックに少し立ち戻らせていただきます。
>「忘れるな」とか「記憶せよ」というのは、つまり「責任の次元」のお話です。が、僕が念頭においているのは例えば、なぜ被害者が常にそれを引き受けなければならないのか?といったことなのです。
責任と忘却ということを、被害者と加害者という軸で考えるとすれば、責任とはつねに被害者に対する加害者の責任でありその逆ではないのですから、それが不均衡であるのは当然であると思います。deadletterさんがおっしゃっているのは、「忘れるな」と声を上げる「責任」はつねに被害者に課せられてしまう、ということなのだと思います。
deadletterさんは加害者は「忘れることができる」と書いていますが、僕が思うに「忘れることができる」のはつねに被害者だけであり、加害者はつねにすでに「忘れている」存在、あるいはさらにいえば「覚えてさえいない」存在です。というのも、当たり前ですが加害者はそもそも被害を受けていないのですから、はじめから自分のものとしての被害の記憶を持っていないわけです。
しかし加害者は、その「覚えてさえいない」被害の記憶を忘れることができません。というのも、そこには忘れていない被害者が存在するからです。このとき加害者は、「忘れる」ためにはかならずある迂回をしなければなりません。というのもそれを本当に「忘れる」ことができるのは被害者だけであるのですから、加害者は被害者に「忘れて」もらうという迂回路を経てしかその被害の記憶を忘れることができないわけです。
ここには被害の記憶をめぐる、被害者と加害者との絶対的な不均衡というものが出現するわけですが、この不均衡が、僕が思うには責任というものが発生するその場です。
以上のような責任というものの捉え方は、明らかにレヴィナス的な他者論の発想に沿うものですが、これを原理的につきつめていくと、忘却というものはそもそも不可能になってしまいます。そこにおそらく例の「作法」の問題や、調停の場としての第三者の次元などが関係してくるのだと思いますが、そのあたりのつながりはまだうまく説明することができません。
長々失礼しました。
Commented by: voleurknkn | 2007年09月27日 14:57
日時: 2007年09月27日 14:57
voleurknknさん。コメントありがとうございます。
(1)インターネットと記憶について
「複製の容易さ=キャッシュの残存」によりインターネット上では本当に「忘れられなくなった」のでしょうか?上でも述べましたが僕はあまりそのようには感じません。
まず「誰がいつどこで何を言ったか(どのように振舞ったか)」が正確に保存されているはずのインターネットでも容易にデマや都市伝説の類が飛び交うのをよく目にするということがあります。例えば光市事件の弁護団が「ドラえもんのストーリーを主張した」とか言っている人たちはあとを絶たないわけです。さてこういう人たちについては「インターネット上には正しい記憶が保存されているが、うまく呼び出すことが出来ない」と考えるべきでしょうか?だとしてもそれは現実の世界についても同じではないでしょうか?
またインターネットにおけるキャッシュの残存により史料の保存状態が相対的に向上したのはそうかもしれません。しかしそれもまた完全ではありません。埋もれていくアーカイヴは無数に存在します。逆に現実でも思わぬところから、思わぬ史料(例えば日記)が発掘されたりするわけですから、本人が完全にコントロール出来ているとも言いがたいわけです。
とすれば僕にはインターネットの世界と(インターネットが存在しなかった)今までの世界では決定的に異なるというようには思えません。「程度問題」ではないでしょうか。もちろん僕もあまり自信を持って言えるわけではありませんが。
(2)以前のトピックについて
>deadletterさんがおっしゃっているのは、「忘れるな」と声を上げる「責任」はつねに被害者に課せられてしまう、ということなのだと思います。
自分の書いたコメントをよく読み返してみると非常にambiguousな文であったと反省しています。僕が言いたいのは(もっと陳腐なことであって)、「被害者に記憶する責任は常には存在しないのではないのか」ということです。voleurknknさんも「僕が思うに「忘れることができる」のはつねに被害者だけ」と仰って下さってますから、被害者は「事実として忘れてしまったりする」ということは共通認識なわけですよね。「忘れていない被害者」も存在するでしょうが、「忘れてしまった被害者」も存在するだろう。そして後者のような「解決」も場合によってはそれなりに重要な意味があるのではないかと、まあそういうことです。
少なくとも藤井誠二のように「被害者は忘れない」などという本質主義的な規定の仕方は傲慢に過ぎるだろうしそもそも正しくも無いと考えます。
Commented by: deadletter | 2007年09月29日 05:08
日時: 2007年09月29日 05:08
ご無沙汰しております。
>(1)インターネットと記憶について
>「複製の容易さ=キャッシュの残存」によりインターネット上は本当に「忘れられなくなった」のでしょうか?
この視点に関して、前回モヤモヤとしか伝えられず申し訳なく思いまして、拙文を顧みず再度投稿いたします。
インターネットがこうも広まる以前は不確かな記憶、間違った記録、断片的な事実といったものは情報(あるいは生きるために必要な何か)としてほぼ意味を持たなかったものように思います。
だからこそ「忘れる」ことは精神安定の図り方として有効であり、「リセット」に近い意味を持ち、私たちは困難に遭っても生を前進させることが出来たのではなかったでしょうか。
ですが、ネット上のそれは寄せ集めればモザイク画のように(多少の変質はあったとしても)十分に意味を発してしまう。
キャッシュは文字や音声や映像という、万人に認識できる体を保っており、欠片といえど確かな質感を持っている。さらにはいつでもそれを呼び出すことが出来る状態で。。。嗚呼!
「忘れる」とは、”感触”を風化させて完成される行為・事象ですから、どうにもならないわけです。私が苦と表現しましたのはそのような絶望感・諦念といったものを感じていたからです。
つまり、正確な事実・記録がそこに有る/無いという問題ではないのです。これを「ネットは忘れてくれない」ともがいてみたのでした。非常に感覚的で、ご同意いただけるかはわかりませんが私が感じていた怖れは、この阻害性に尽きるのでした。
Commented by: R.KEMPE | 2008年05月10日 10:55
日時: 2008年05月10日 10:55
R.KEMPEさん。お久しぶりです。
「インターネットによる記憶」という考え方のベースにあるのは、「正しい記憶がどこかに貯蔵されていて、思い出すというのはそれを取り出す作業である」というモデルなのだと思います。従って貯蔵庫の機能(容量など)が向上すればするほど「思い出し」は容易になるというわけです。
僕が思っているのはそのモデルは果たして正しいのだろうかということです。僕たちは多くのことを忘れてしまっているし、そもそも何を忘れたかすらも忘れてしまっているからです。「何を忘れたかを忘れている」のならばいくら貯蔵庫を漁ってみてもムダですよね。もちろんじゃあ記憶とはなんなんだと言われると浅学な僕にはまだ結論は出ないのですが。
Commented by: deadletter | 2008年05月13日 09:46
日時: 2008年05月13日 09:46