« 自爆と倫理性 | Main | 「忘れる」という権利 »

2007年07月11日

「被害者の人権」は普遍的か?

Thinking

仮に妻子を惨殺された夫が、葬式で涙の一つも見せず、その翌日に女と遊びに行ってしまうような男だったとしよう。さらにもう一つ、彼の殺された妻もしばしば育児をほったらかしにしながら男と浮気をし、家庭内不和が表面化していたと仮定を置いてみよう。つまり彼らの家庭は世間的に見て眉をひそめられるようなものだったのである。

さてその被害者遺族=夫がいかにも美味そうにタバコの煙をくゆらせながら記者会見でこのように主張するのである。

「犯人を決して許すことが出来ない。彼は許されないことをした。命をもって償わなければならない。」

光市母子殺人事件の被害者遺族である本村氏はもちろん上記のような人間であるどころか、それとは正反対にあるような人である(ように少なくとも僕には「見える」)。彼は生真面目なサラリーマンであり、そして大恋愛の末結ばれた妻と待望の一人娘を一途に愛す良き家庭人でもあった。彼の家庭は現代の社会における「幸せな家庭像」の一つの理想形である。その「理想」が突如として失われ、踏みにじられた。彼に期待されるのは、そのことに対する深い悲しみと憤りの態度を「示し」、その「理想」にいわば「殉じる」ことである。そして彼は実際にそのように振舞い続けたのである。

冒頭のケースの場合、果たしてこの国の「世間」は加害者の弁護人が、事実認定を徹底的に争うこと自体に批判の声を上げたり、「被害者を愚弄するものだ」と激昂したりしただろうか?「人を殺した人間が生きて償うということがいかにして可能なのか私には分からない。殺人は死を持って償うのが当然である」とする被害者遺族の主張にどれだけ共感を示しただろうか?

率直に言ってこれほどまでに「被害者家族」に寄り添おうとする空気が生まれた可能性はほとんど無いだろう。そもそもこの国の人たちは、イラクで誘拐されたジャーナリスト・ボランティアの家族へのバッシングに見られるように「被害者家族」に対してそれほど優しいわけではない。ちなみにあれは「被害者に落ち度があるのだから同列には論じられない」と言われるかもしれない。ならば隣国による拉致被害者家族に対するバッシング(2004年5月の小泉訪朝時)を挙げてもいい。

被害者家族が「出過ぎた真似」をすれば世間は手のひらを返したように彼らを叩く。「被害者」は「ある一定のフォーマット」に従っていなければならず、それを逸脱すれば「被害者の人権」とやらは一顧だにされない。その意味で世間にとって「被害者の人権」とは実は普遍的に保障されるべきものではない。

さて僕は以前このようなEntryを書いたことがある。

この社会には母が死んだ時、自分の家族が犯罪事件に巻き込まれた時、振舞うべきフォーマットが存在し、その通りに「お芝居」をしない人間は激しい憎悪の対象になる。*僕にはいつまで本村氏がこの国の人々から同情心・共感を調達し続けられるような「被害者」を演じ続けられるのか、分からない。ちなみに僕は彼がこれまでそれに「成功」してきたのは、今回の事件の加害者のキャラクターによる部分も大きいと思っている。もし加害者が傍から見て反省の気持ちが現れているような手紙だけを綴り、法廷でひたすら謝罪の言葉を述べてさえいれば、本村氏は果たして「現代のヒーロー」となりえただろうか?「被害者の人権」を主張しうるか否かは、加害者がどのように振舞うかにも依存しているように思われる。

このように本村氏のように、その家庭が如何に理想形であり、非の打ち所のない社会人・家庭人であったとしても、被害者が共感を呼び続けられる保証はない。そしてまたそれらは「最低条件」であって、その条件を満たせないものはそもそもこの苛酷な「ゲーム」に参加することすら出来ないのである。

*ちなみに脱線事故の被害者であるマンション住民の事件後の振舞い(外で「ステーキ」を食べた際の領収書をJRWに回した)・補償交渉(購入時価格から更に上乗せした額を要求)が一部で否定的に論じられていたことも記しておこう。

Trackback

Trackback URL for this entry:

http://deadletter.hmc5.com/blog/mt-deadlettertrackback.cgi/15

Comment (2)

まず、普遍という概念をどうとらえるかですが、少なくとも、「普遍=同じ」ではないと思います。人が人の命を奪うことそのものにおける普遍的な意味は変わるものではありません。しかし、そこに至る個々の事象に対する世間の受け取り方は千差万別でしょう。同じ事象であっても受け取り方は様々であるということ自体が、広義の意味で普遍と言えるのではないでしょうか。人の命を奪う理由が「戦争」であろうと「正当防衛」であろうとしてはならないことには変わりません。どんな事情があろうとも、人の命を奪った以上は何らかの苦しみが付いてまわります。その部分に関しては普遍性があります。それプラス様々な事情が積重なっていくわけですが、その様々な事情の一つ一つに普遍が存在します。そして、それらの事情は点ではなく線でつながっています。つまり、一つ一つのパーツだけ見ていては真実は見えてこないし理解もできないということです。幾つかの色を重ねていくとまったく違う色になります。しかし、結果として出来上がった色だけを見てどんな色が組み合された結果なのかは容易に判断できるものではありません。そういった複雑怪奇なこの世の仕組みというか構造そのものが「普遍」そのものではないでしょうか。

deadletter:

布都斯さん。コメントありがとうございます。

Entry上は「普遍」という言葉を「原則的に誰でもどんな場合でも妥当する」というような比較的一般的な意味合いで使いましたが、より深く解明しようと思えばなかなかに難しい概念ではあるかもしれませんね。

Post a comment

(CommentSpam対策などの為、管理人に承認されるまではコメントは表示されません。表示されるまでしばらくお待ちください。なおコメントマナーについてはこちらをお読みください。)