藤岡(引用者註 藤岡信勝氏のこと)のやっていることと、藤岡によって「自虐史観」と批判されている歴史家のやっていることは「『何よりだめな日本』とはいつからいつまでの日本のことなのか」という設問に対する時間的なレンジの取り方の違いだけであるようにしか私には思えない。切れ味鋭い批評であると思う。 要するに藤岡らが行っている「自虐史観批判」とやらは事実上「戦前は戦後よりも良い時代であった」というイデオロギーの表明、政治的言明なのだ。一切の「自虐」が許されないとするならば、戦後を悪し様に罵ることも許されなくなるはずだからだ。
(2)「現在の価値観で過去の歴史(出来事)を裁いてはいけない」という、これまた「さも道徳的に」為される御託宣がある。僕にはこれもイデオロギーから逃れられていない、ご都合主義的な主張であるように思われる。
仮に過去に対する一切の「審断」が許されないなら、例えば過去に日本において社会党が朝鮮民主主義人民共和国にある種の「共感」を示していたこと、拉致事件を取り上げるのに否定的であったという歴史的事実についても、その審断について、抑制的であるべきではないだろうか。けれどもこの種の道徳的高みからものを言いたがる人たちに限って、社会党の当時の行為を手厳しく断罪するわけである。
戦前の軍部、戦時指導者達を批判するのは現代に生きる人間が歴史上の「if」を持ち出して行う傲慢な行為であるとするならば、その同じ批判が当時の社会党に対する批判にも適用されなければならないのではないだろうか。
(1)(2)に共通して言えるのは、この手の言明はそれをリテラルにとるならば泥沼の相対主義に陥るしかないという意味において、空虚なレトリックに過ぎないということである。
「こんな教科書を子どもに与えていれば、やがて日本は腐食し、挫滅し、溶解し、解体するだろう。自国の近現代史教育のあり方こそは、一国民を国民として形成する最重要の条件である。誇るべき歴史を共有しない限り、国民の自己形成はできない。」(藤岡信勝)
「今のわれわれに未来がはっきり見えないように、当時の日本人もまた見えない未来を必死に手探りしつつ生きていたのであって、愚かといえば確かにどちらも愚かであるが、健気(けなげ)で無我夢中で、我武者羅(がむしゃら)に前方ばかりを見て、哀れなほどに愚直に生きているのだといえば、戦中も今も、日本人の生き方はどちらも似たようなものではないだろうか。」(西尾幹二)藤岡は「戦後」についても「誇るべき歴史」として共有すべきと主張しなければならないし、西尾は社会党はもちろん小泉純一郎をも、健気で愚直に生きたとして「小利口に」批判してはならないということになる。けれども彼らはもちろん相対主義者ではない。特定の時代を称揚し、特定の人物を手厳しく批判する、そういう政治性にがんじがらめになった凡庸な言論人に過ぎない。このような「文学的」レトリックはその政治性を隠蔽するだろう。他者に対して、そしておそらくは自己に対しても。僕はそれを自己欺瞞と呼びたい。
ここには、「レトリック」に陶酔し、自己のイデオロギー性・政治性に対する嗅覚も鈍磨させた、知性の残骸しか見て取ることは出来ないと思う。
(追記)
「道徳心がない」「醜い自己本位の世」と今の日本を悪く言う「自虐現代観」を押し付けられたら、子供達が愛国心を持てなくなるよ!…って誰か言わないのかな。ちなみに今回のはopemuさんのEntryを意識して書きました。最初にそれを言ったのは誰かは分かりませんが内田先生のこの批評は最も早い時期に為されたものの一つだと思います。


Comment (2)
こんにちは。
「朝日新聞の犯した戦争犯罪!」なんて断罪する右派メディアも多いようです。
「戦前・戦中の朝日新聞は素晴らしかったのに」とは言わないんですね。
Commented by: Jonah | 2007年01月19日 16:06
日時: 2007年01月19日 16:06
Jonahさん。お久しぶりです。
戦時中の朝日新聞は軍部主導の政策を賛美し、恥部について隠蔽するような記事を書いていたわけですから、確かに藤岡氏の言ういわゆる「自国に誇りの持てる」報道をしていたと言えますよね。
また当時の朝日新聞も「無我夢中に我武者羅に」やっていたはずですから、歴史上の「if」を持ち出して「後出しじゃんけん」するのも控えるべきですよね。
Commented by: deadletter | 2007年01月19日 20:34
日時: 2007年01月19日 20:34