「国家は国民の生命財産を守るために万が一の事態にも備えておかなければならない」
(ちなみに中国・北朝鮮脅威論を絡めて軍事的緊張を煽る人たちの間で、この手の主張を割によく見かける。つまりそこで言われている「万が一の事態」とは「日本が攻撃されること」である。)
さて、字義通りに受け取るならばこれは嘘である。というか、国家の持つリソースが有限であることを考えれば、あらゆる「万が一の事態」(それはおそらく無限に存在するだろう)に備えることはそもそも不可能である(そして事実この国は万が一の事態どころか、現に生じている、或いは生じる可能性が極めて高い事態にも有効な手を打てていないのだ)。また、ある特定の「万が一の事態」に備えることが、逆に他の深刻な問題を惹き起こすことすらありうる。
直径10kmくらいの隕石が落ちてくるという「万が一」の事態に備えて、その対策についての予算を計上しようという行政府は、端的に言って無能である。原子力は発電所が大爆発を起こす確率は非常に低く、またそれに対する唯一にして最適な対策は原子力発電を止める事だけれども、万が一に備えてそれを実行することは深刻な政治的(経済的)コンフリクトを惹き起こすだろう。100年に1度どころか今まで過去に1度も洪水が生じたことのない河川の上流に「万が一」の論理でダムを作れば、財政・環境への負担は甚大なものになる。
言うまでもなく問題はどの「万が一の事態」に優先的に対処するかであって、そこには恣意性、或いは政治性が介入せざるを得ない。「万が一」という論理のみによっては、特定の、例えば安全保障政策に優先的にリソースを配分することは正当化し得ない。「万が一」の論理はそのままでは政策に関するプライオリティ、ランク付けの際に用いる基準として全く役に立たないという意味で、やはり空虚なレトリックでしかない。
前回の結論と同じで申し訳ないのだけれども冒頭の主張は、それがある特定の政策を優先させる事の正当化のために為されているのならば、極めて政治的な主張であると言わざるを得ない。またそうではなく、単に国家についての一般論を述べただけであるならば、それだけでは具体的な政策決定過程において「どの万が一の事態に対処すべきか」について何ら有益な結論を引き出せないのである(そもそもそれが「一般論」の意味である)。
(追記)
例えば僕が批判したいのはこういう低レベルな煽り(まるで下手なセコムのセールスマンの営業トークのようだ)なわけです。
工作員や犯罪組織は入り放題。社会秩序はめちゃくちゃ。仮に日本海側の原発を乗っ取られても排除することもできない。もっといえば、軍事力の空白を危惧したアメリカ軍が勝手に沖縄などに居座り、核ミサイルを配備し始めるかもしれない。だったら、どうやって止めるの?(宮崎哲弥 論座2006年12月号)「どうやって」と言われても、まずそれらの事態の生じる蓋然性を詳細に検討し、同時に他の政治的イシューとの優先順位を比較検討した上で、その対応が必要かどうか決定するしかないですね。
(関連Entry)
「ムダという概念について」

