何ともやりきれない思いがする。僕は中小企業を営む父を持つ。父は常に日々の資金繰りに頭を悩ましている。僕もその父を間近で見てきてその苦労を痛いほど良く知っている。だから浅田農産の会長の過ちを一方的に非難する気持ちになれない。
ある新聞は「浅田農産は養鶏業界に対して背信行為を行い、結果として自分で自分の首を絞めた。こういう場合正直であることこそが最善なのだ」と語った。つまり「損して得取れ」というわけだ。なるほど確かにそれは「長期的に見れば」真実かもしれない。でもその「損」は一体どれだけの時間が経てば「回収」出来る「得」なのか。一年後か、二年後か、それとも十年後か。絵空事と言うより他はない。一年後に得を取れれば良い、と言って経営戦略を練る中小企業などどこにあるというのか。ほとんどの企業が半年後、いや三ヵ月後の資金繰りにさえ頭を抱えているのだ。
そういう状況の中で彼がふと過ちに手を染めてしまったこと、僕はそれを口汚く非難することに躊躇いを覚える。少なくとも彼らの飼っていた鳥がインフルエンザに感染したことは彼らの責任ではないし、「疾病感染」のような突発的、偶発的事故に関しては、公的支援・補償が素早く、そして手厚くなされるべきだったと思う。そういったことを考慮せずに、今この国で起きている「鳥インフルエンザの蔓延」は全て彼らの責任であるかのように言うのは、やはり行き過ぎだし、控えられるべきだ。
だからと言って僕は彼らを免罪しようというのではない。彼らは「過ち」を犯した。その「過ち」は償わなければならない。問題はその過ちがどれだけのものか、一体彼らはどれだけの責任があり、具体的にどういった形で償うべきか、それが責任を問う側の方できちんと詰められていないということではないか、だと僕は思う。
もう一度整理しよう。僕は少なくとも今回彼らがとった責任のとり方は「過剰」だったし、そこまですることはなかった、と思う(おそらくあれほど批判・追及をしてきたマスコミですらそう思っているはずだ)。それは要するに、賠償金であれば例えば1,000万で済むところを3,000万、といったように彼らが余計に払い過ぎたということだ。問題は何故彼らは「過剰」に払い、そして僕たちは「貰い過ぎた」のか、ということだ。
それは僕たちが「何も言わなかったから」ではないだろうか。僕たちは彼らに「何をすれば」、「どのような行動を取れば」、それが「責任をとったことになる」ということを何も具体的に示さなかった。僕たちは彼らに「ケジメをつけろ」、「責任をとれ」、「誠意を見せろ」、と迫った。でも具体的に「何をしろ」、「いくら払え」とは決して言わなかった。それは「誠意を見せるお前たち次第だ」というわけだ。そう、まるで「ヤクザ」が「ケジメ」を迫るかのように。
下手な額を提示すれば「お前の誠意はその程度か」、「ふざけるな」と罵られることは明らかだ。だから「ケジメ」を迫られた側は「過剰に」支払わざるを得ない。今回の場合、浅田農産の会長は不幸にも自らの命を差し出してしまった。でもそのようなものを差し出されても、僕たちは困惑する。僕たちは「誠意を見せろ」とは迫ったが、そこまでのことを要求したつもりはなかったからだ。要求した側のほうに「何を要求するか」についてのコンセンサスが全くないところに、要求された側からいきなり最も「重い」ものが差し出されてきた、この事件の何とも言えない後味の悪さはそこに原因があるんじゃないだろうか。
もし彼らの責任はこれだけの範囲で問われるべきだから、具体的にこのようにして償え、というように冷静に議論が進んでいればこのようにはならなかったはずだ。でも僕たちは、ひどいパニックに陥った結果、それを収拾する為、今起きている災害の元凶を京都の小さな養鶏業者に押し付けることで束の間のカタルシスを得る、という、考え得る限りで最も非生産的なことをやってしまった(彼らが死んだところで感染がおさまるわけではない)。そして今回の悲劇は起きてしまった。
こういった悲劇は、僕たちが「責任とは何か」、「責任をとるということはどういうことか」をきちんと考え、詰めていかない限り、繰り返し起こるだろう。「北の国から '92 巣立ち」には純(吉岡秀隆)がタマコ(裕木奈江)を妊娠させてしまい、タマコの叔父(菅原文太)に五郎(田中邦衛)と謝りに行く、という有名なシーンがある。タマコの叔父はひたすら頭を下げ続ける五朗に
「誠意って何かね?」
と不満を述べる。「それでは満足しない」、「償い方が足りない」、というわけだ。でももし五朗が「どうすれば誠意を見せたこと(責任をとったこと)になりますか?」とタマコの叔父に逆に問うたとしたら、一体彼は何と答えただろうか?

