前回書いた「対案」問題については北田暁大さんのBlog「試行空間」のこのEntryなんかも参考になるかもしれない。
「困っている人がいるというのに何もしなくて良いのか」、「(被害者の声に)正しく応答しないお前は出て行け!」といった道徳的恫喝を行う派兵推進派に対して、反対派には何が言えるのか。
森達也は言う。「北朝鮮の問題がシンボリックですが、被害者の哀しみや痛みなど、実は第三者には分かりません。でもその第三者が、被害者の痛みを知れと居丈高になっている。要するに共有しているのは加害者への憎悪です」(鵜飼哲・森達也「死刑文化からの抜け道を求めて」)。こういう場合、被害者感情は「道徳的総会屋」によって消費されているとはいえないだろうか。「被害者の声を聞かない/正しく応答しないお前は出てけ!」という・・・。被害者の本当の声など第三者には分からない。でもその諦念から出発して初めて僕たちは被害者との距離を少しでも縮める為の第一歩を踏み出すことが出来るのだ。「分からない」という事実に開き直るのではなく、だからこそ「よりよき聴き方を考え」よう、という方向への一歩を。
けれども、「金だけ出せば良いというものではない」→「人を出して汗をかかなければ本当の支援ではない」→「だから自衛隊を出すのだ」という政府、外務省が主張するこの粗雑なロジックには、肝心の「イラクの人たち」の存在がどこにも見当たらない(本来なら「本当の支援」かどうかはイラクの人たちが判断すべきことだ)。
また、小泉が「イラク復興」と口走る時、一体その中身は何なのか、僕たちは一度でもきちんとした説明を受けたことがあっただろうか。「どのように復興すべきなのか」について、イラクの人たちの意思を汲み取ろうという姿勢を、彼はただの一度でも見せたことがあっただろうか(それとも小泉自身が「復興した」と判断すればそれが「復興だ」とでも言いたいのか)。
もっとも、多くの人が感じているように、政府や推進派の道徳的恫喝は、多分本当は単なる口実でしかない。彼らの本心は「イラクの人たちを助けてあげたい」というところにではなく、寧ろ「自衛隊を海外に派兵し既成事実を作りたい」、或いは「アメリカに自らのプレゼンスを示したい」、そして最終的には「憲法改正に繋げたい」というところにあるからだ。
死刑を巡る議論で「被害者感情」を前面に押し出してくる人々は、曲がりなりにも「道徳に重きをおく」「道徳的総会屋」だと言える。けれども、自衛隊派兵に関する議論においては派兵推進派は本当は「道徳など信じていず」に「道徳を利用しているだけ」の、単なる「総会屋」であるように僕は思う。
まあそもそも、「北朝鮮問題があるからアメリカのイラク攻撃を支持する(=イラクの人たちの犠牲には目をつぶる)」などという、身も蓋もないロジックで突っ走ってきた政府にいまさら「道徳を語る」資格などないのは明らかなのだけれども(「盗人猛々しい」とはこのことだ)。
(追記)
現地のニーズも調査しない押し付けの「支援」を続けていれば、こういう批判が出てくるのは必然だ(リンク1 ・ リンク2)。ちなみにサマワの新聞は残念ながらまだ勘違いをしている。「ペースが遅い」のではない。「そもそもあなたたちのニーズは、計画には入っていない」のだ(電力の復旧ってそんなモノが自衛隊の任務にあっただろうか)。

