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2004年04月05日

「分からなさ」を認めること

Thinking

日の丸・君が代問題について石原慎太郎は「なぜ忌避か分からない」という、近代国家の政治家として極めてレベルの低い言葉を吐いた。

そもそも「忌避の理由が分からない」からといってなぜそれが強制を認める理由となるのだろうか。違う文脈だがかつて述べたことをもう一度繰り返そう。そもそも僕たちには他人のことなど分からない。だけれども、そこを互いに積極的に認めて初めて他者と向き合う一歩を僕たちは踏み出すことが出来るのだ。

でも石原はどうか。彼は「分からない」という事実の前に屈し、ただ自分自身を取り巻く小さな「言葉にせずとも何となく気持ちが伝わる」サークル、共同体的ぬるさから一歩も踏み出そうとせずに馴れ合っているだけだ。だから「分からなさ」をイレギュラーと捉え、「分からない」奴を「仲間はずれ」にして切り捨てる。

「分かるのが当然」→「その当然という感覚を持っていない奴が異常だ」→「強制してでも異常を矯正すべし」という石原のロジックには自己と異質な「他者」が存在する余地がない。存在してはならない「他者」は排除されるか感覚を強制されるかのいずれかを選ばされるというわけだ。

けれどもこのロジックは近代国家の政治システムにおいては存在してはならないものだ。

今回都教育委員会のやり方に賛意を示した人たちの中には「そんなにこの国が嫌いならこの国を出て行けば良いじゃないか」という意見をいう人たちもいた。「国旗国歌を愛するのは国民として当然で、それを否定する人はイレギュラーな存在であり、強制されて当然、拒否を貫くなら国民に非ず」というわけだ。

けれども国旗国歌への愛情は「当然の」感情ではありえないということ、また、近代国家は、仮に「その愛情を当然に持つ人」であろうと「持たない人」であろうと、等しく国民として認め、彼の基本的人権を保障する際にはいかなる条件も課してはならないこと、については前回のEntryで書いた。近代国家においてはまさにこのことが大前提の一つなのだ。

僕は、どんな信念から、どんな理由から、今回処罰された教職員たちが君が代と日の丸を拒否したのかは詳しく知らない。その中には理解できるものもあれば、逆に全く理解し難いものもあるだろう。だがそれで構わないのではないか。重要なことは「それで良い、だからこそコミュニケーションが必要なのだ」という感覚を手放さないことだ。そしてそれは近代国家に生きる者としての最低限の民度でもあるだろう、と僕は思う。

(追記)
Bulkfeeds→「君が代」で検索してみると、都教委の方針に賛成の人たちがしばしばある興味深い発言を行っているのが分かる。いわく「子供たちに特定の思想を押し付けるな」というものだ。僕には最初その意味が分からなかった(国に敬意を払うべきだという思想を、処罰をちらつかせ強制しているのは明らかに都教委の方だ)。が、読んでいるうちに、

「君が代・日の丸反対派の教員はある特定の思想的こだわりを持つ」→「その思想的立場の表現として、不起立という態度を示した」→「それを示すことで生徒に特定の思想教育を行っている」、という話の流れだというのがようやく分かってきた。

こういった反応はまさに僕が述べてきたことを象徴的に示している。

「国に敬意を払うべきだ」と言っている人たちは、それを「常識」、「当然」と捉えているので、それもまた特定の思想的立場である、ということはハナから考えることが出来ないようだ(だから彼らの中では、自分たちのその思想は「押し付け」にはあたらない、とされる)。自分たちは持つ感覚は「常識」であり、従って非偏向的で、かつ普遍的である。これを受け容れない人間こそがイレギュラーなのだ、というわけだ。

「常識」の側に在る、自分こそは何にも染まらない中立の立場にいる、従って、異質であり、「ズレ」を抱える他者(=イレギュラーな存在)を一方的に裁断できる権利を独占しうる、と信じ込む人たち。こういう人たちが石原を支援し、「日本を変えてくれ」と主張している。そういう人たちによって変えられた「国」は、本当にその国の構成員を今よりも自由で幸せにしてくれるだろうか。

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