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2004年05月21日

パブリックとプライベート

Thinking

今月のサイゾーの「M2」対談は「自己責任論」がテーマ。

その中で宮崎哲弥は、日本では「パブリック」=「会社や行政」で、それを離れた活動は全て「私的趣味」というように、「公私」の概念が欧米と逆になっている、ということを指摘している。 だから、例えば仮に今回被害にあったのが会社の辞令で出張していた商社マンであれば、おそらく同情が寄せられたのだろうけど、それ以外の用事=私的趣味で出かけていった人間なんか、救ってやる必要があるのか、と非難されることになる。

僕がこの指摘を見て思い浮かべた欧米の「公私」の概念は、柄谷行人や浅田彰が盛んに紹介しているカントの考えだ。

カントの考えはこうです。われわれは国民(=国家の一員)であり、また、政治家や公務員であったりもする。しかし、それはいわば「理性の私的利用」であって、われわれは同時に、それを離れてパブリックに考えなければならないというのです。そのためには、理性をパブリックに用いることの無制限な自由が保障されなければならないというわけです。(柄谷行人『倫理21』)
「日本の現状をみてると、政治にしても経済にしても、いかに国家とか大企業とかに関わる人たちが、パブリックどころかプライヴェートにやってきたかっていうのが完全にばれてるわけじゃん。そうじゃなくて、別にヴォランティアやNPOを無条件に賛美するわけじゃないけど、そういうところで一見、根無し草的にやってる中からしか、本当にパブリックなものっていうのは立ち上がらないっていう気がするね」(浅田彰『新・憂国呆談』)
「企業活動」とは「当該企業の私的利潤追求活動」に過ぎず、「国家活動」も「当該国家の国益追求活動」に過ぎないのだから、つまるところは「私的趣味」である。本当の「パブリック」というものは自分がどこの会社の社員であるとか、どこの国の国民であるとか、そういった属性を全て括弧に入れた上で思考した時において立ち上がるものだ、そう彼らは言う。

「三菱ふそう・トラック事件」で会社から隠蔽工作を命じられて、それを(やむなく?)「仕事」として行った社員は「理性の公的使用」つまり「パブリック」に思考しただろうか。さらに少し昔に遡れば薬害エイズを引き起こした「ミドリ十字」の社員、或いはそれを一緒になって隠した厚生省の官僚たちはどうか。

前回のEntryで紹介した松沢さんのコラムに登場した「読者」の方がジャーナリストである2人については、「ジャーナリズム」=「商売」(=「パブリック」)であるとして、彼らを免責し、ボランティアで出かけた高遠さんだけを批判したのもおそらく彼の中で「公私」の概念が逆さまになっているからだろう。

ちなみに「国家」ついては、「国家」を離れた「パブリック」はありうるかという議論は今なお延々と議論されているところではある。特に「国家」という枠組みを離れた「パブリック」=世界市民的立場には何らかの有意味さを見出すのは困難、という立場や、歴史的伝統・文化的コンテクストを離れた理性の使用などというものはありえない、といった立場は確かに存在する。

ただ日本に関して言えば、

3 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。 (前文)
という。まさに「理性の私的使用」を制限することを日本国民としての「理想」に掲げる「憲法」を僕たちは持っている、ということは指摘しておきたい。そして小泉が自衛隊派兵決定の論拠にしたのもまさにここだったはずだ。にもかかわらず「勝手に(=私的趣味で)行った(だから救出してやる必要はない)」などというセリフをどうして吐けるのか。「理性の公的使用」においてイラクに赴いたのだから、まずは「理想」を同じくする者として何が何でも助ける、とどうして言えないのか。

もちろん僕は「かれらの活動が立派だから非難するな」とまで言うつもりはない(山形浩生氏「自由には必ず責任が伴う」.ちなみに残念ながら彼はまともな「自己責任論」批判論者の意見を読まなかったようで、このコラムの大半はドン・キホーテ的議論になってしまっている)。

そうではなくて、批判すべきことがあったとしても「とりあえず全力で救うことが先決で批判は救出後、詳しい事情が分かってから」ということを言いたいのだ。今回の「自己責任論」は、実際に彼らにどんなミス、不注意があったのか、彼らの活動はどんな成果を挙げていたのか、何も分からないうちから、皆が即席の似非イラク情勢専門家の顔をしてバッシングしていたというのが実態だった。

山形氏は自分で作ったこれを根拠にしてたみたいだけど、これだって自分自身で注釈をつけてるように、事実をどれだけ反映してるのか分からないはずだ(例えば一方でこういう記事だってあった)。それだけで「とりあえずまず全力で救助する」ということのプライオリティーを放棄して良いとは到底僕には思えないのだ。

(追記1)
小泉のイラクへの自衛隊派兵決定の際の記者会見をクリップ。

一般の国民にはできない、日ごろの厳しい訓練に耐えて、あえて決して安全ではないかもしれない、危険を伴う困難な任務に決意を固めて赴こうとしている自衛隊員に対しまして、私は多くの国民が、願わくば、敬意と感謝の念を持って送り出していただきたいと思います。 まさに今、日本がどのようなイラク復興支援に取り組むか、それは憲法の前文にあるように、日本国の理念、国家としての意思が問われているんだと思います。日本国民の精神が試されているんだと思います。危険だからといって人的な貢献をしない、金だけ出せばいいという状況にはないと思います。

日本としてできるだけのことを支援すると。そういうことによって、多くの外交官も、あるいはNGOで活躍している一市民も、そして自衛隊の諸君の活動も、イラク国民から評価されれば、一番恩恵を受けるのは日本の国民だと私は思っております。

小泉は今回人質になった彼らに「敬意と感謝の念」を持たなくてはならないはずだ。

(追記2)
山形浩生氏のコラムの中の「社会のプール論」に対する批判。
スワンさんのBlogのEntryをクリップ。

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