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2004年05月24日

「シザーハンズ」

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先日我が家にDVDプレーヤーが新しく入った。それ以来というもの姉は狂ったようにDVDをレンタルしてきて、夕方以降家のテレビを独り占めしている。えーい邪魔だ。僕はプロ野球が観たいのだ。特に夜8時半頃からの巨人戦が観たいのだ。中継陣が自滅を始めた時の堀内の自嘲的な薄笑いが観たいのだ。

シザーハンズところが、今週姉が借りてきた映画は割とヒット。その名もご存知「シザーハンズ」。

主人公エドワードに扮するジョニー・デップのほとんど表情だけで見せる繊細な演技は素晴らしいし、ヒロインのキムを演じるウィノナ・ライダーも(いまや万引き女優として悪名を馳せてしまっているようだが…やれやれ)本当に可愛い。それに何といっても物語が、多少強引な筋が散見されるとは言え、とても美しく切ない。というわけで、以下感想。

エドワードの「手=ハサミ」は街の人たちとのコミュニケーション手段として重要な役割を果たす。でもそれは一方でそれに触れるあらゆるモノを切り刻み、傷つける凶器でもありうる。また、その「手=ハサミ」は「植木」、「犬の毛」、「髪」といった無機物に向かう時その「手」は賞賛を浴びる。でもひとたび「人」に向かえば、一転して彼の「手」は「恐怖」の対象になりうる。彼の「手」は物語の中で常に両義的な意味合いを持たされる。

とはいえ、これはどんなコミュニケーションツールを用いる際も同じだ。どのようなコミュニケーション、例えば言葉によるものであれ何であれ、「誰かを傷つけるかもしれない」という可能性を排除する事は出来ない。エドワードが街の人間として暮らし続ける、ということはその可能性をも前提として受け入れる、ということを意味するのだ。

けれどもエドワードは結局「誰をも傷つけない」ことを選択し(それはあらゆるコミュニケーションを断念するということだ)、街を去り城に帰って行く。「誰かを傷つけうる自己」を発見し、戸惑い、たじろぐ彼は、現代日本の「ひきこもり」を象徴しているようにも見える。

もちろんその彼を「ナイーヴに過ぎる」と簡単に切って捨てることは出来ない。彼が暮らそうとした街の人々が受け入れようとしたのは、誰かを傷つけうる可能性をも含めた彼全体ではなく、そのほんの一部分だけ、植木屋として、美容師として役に立つ手先の器用な存在、要するに「入れ替え可能な機械」としての彼でしかなかったからだ(もちろんこのことはハサミの手を持つという「異形の者」であるエドワードにとどまる問題ではない)。

この映画はとても分かりやすい。そして分かりやすいが故に残酷で哀しい。

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