「教育基本法では個人の尊厳が強調されている。日教組の教育とあいまって、個人の尊厳が行き過ぎて教室破壊が起こり、生徒同士が殺し合いをする荒廃した状況になってきている」(平沼赳夫前経産相)
おそらくこの発言をした人は「自由の履き違え」ならぬ「個人の尊厳の履き違え」を犯している。標準的な社会契約論(例えばジョン・ロック)では、人間には天賦の人権が与えられているが、それをよりよく保存する為に国家というフィクションが生み出された、という道筋になっている。
国家は、様々な信念や思想において異なりうる個人を共存・共生させ、なおかつ共同生活の利便性を可能な限り豊富に個々人に享受させるべく尽力しなければならない。僕たちはそのようなものとして「国家」と契約を結ぶわけだ。その意味で「個人の尊厳」というのは近代国家において基盤となる概念と言える。ではここで「個人の尊厳」という時、それは彼の「殺人の自由」をも含意しうるか。
答えはもちろんNo。社会契約の際に「天賦の人権」として「他人を殺す自由」をも保存しようということが想定されていた、などということはナンセンスだし、またそれは「異なりうる個人同士の共存・共生」という部分に決定的に抵触する。教育基本法の謳う「個人の尊厳」という理念が「殺人を犯す自由」を含意しているということは、この国が立憲主義に立つ近代国家である以上はありえないことだ。
要するに上記の政治家は単なる無知と妄想から教育基本法を槍玉に挙げているに過ぎない。「人を殺してはならないと教えることが必要だ」ということが言いたいだけなら、「基本法が謳っている個人の尊厳とは何か、を徹底的に教えよ」と言ったって良いのだし、教育基本法を絡めて語るのであれば寧ろそのように言うべきところのはずだ。
始めから存在しもしない敵めがけて刀を振り回す「ドン・キホーテ」を、すすんで演じようとする彼ほど「自作自演」の名が似合う人間も、またそうはいないだろう。

