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2004年07月23日

超越論的「お約束」

Thinking

「山形浩生勝手に広報部:部室」での「人権」と「民主主義」に関する議論(こことかここあたり)を見て考えたこと。

山形さんの「人権観」はある意味明快

権利なんて、社会的なお約束ごとにすぎない。決めごとだ。
だから民主的な議論によって「お前の権利は必要ない」ということが決まれば、その権利は保障されないし、場合によっては侵害されても当然。何故なら権利は「お約束」に過ぎないから。

しかしこの議論に対して稲葉さんも紹介する長谷部恭男的立憲主義は真っ向から反論する。

例えば、民主的で正当な手続きによって「山形浩生の言論の自由は必要ない」という決定がなされた場合、山形さんはそれに従うだろうか。「権利なんて、社会的なお約束ごと」だから仕方ない、と言って。

そうではない、と長谷部さんは強調する。民主主義的決定はあらゆる場面において優先されるべきものではない。その決定が基本的人権の侵害をも是認するようなものであった場合、それに従う必要などない。それが基本的人権を憲法が保障していることの意味だ、というわけだ。つまり憲法は民主的に決めて良いこと/決めてはいけないことの線引きを行っているものなのだ。

近代憲法を持つ国家は、その多くが民主主義国家でもあるけれども、民主的に決めてはいけないものとしての「人権」を定めている。そのような権利は「単なるお約束」ではなく、国家の成り立ちに関わる「超越論的お約束」とでも言うべきものだ。

ちなみにこのことを稲葉さんは「善なる嘘」と表現しているんだけど、山形さんはそれを「よくできたウソ」と言い換えた上でそれは不健全だ、と主張している。でも「善なる嘘」というのは「それなしでは社会が成り立たないような嘘」であって「知らない人を愚弄する議論」というのとはちょっと違う。なぜ人を殺してはいけないか、には根拠なんてないけど、根拠がないので何でもありです、となったら社会が成り立たない、そういう場において生じる嘘、(極論すれば)「騙している主体」が存在しない(=偏在している)嘘、それが「善なる嘘」だ。

山形さんもそこのところは何となく分かっているようで「どっかで何か出発点を(へたすると恣意的に)設定しないと、民主主義も成立しないでしょう。」とは述べている。まさにそうだ。そして「出発点」は一度画定したら(ある程度)動かないから「出発点」足りうるのだ。そもそも彼の言う「国家リソース論」のごときものでいちいち動かしていたら、出発点の「出発点性」(お約束の「超越論性」)が失われてしまうのではないだろうか。

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Comment (2)

しかし、それは単なる自然法&社会契約説なのでは?(別にルソーを再発見しても悪いことはないですが)

deadletter:

単純な分類は難しいのですが、法の効力の基礎が「民主的決定過程」のみにあり、それ以外の価値へのコミットメントを認めない、というのを実定法派だとすれば(僕には山形氏はこの立場だと思えるのですが)、僕がその立場は取らないということは確かです。

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