ロシアで起きた学校占拠事件のことを考えながら、酒井隆史「暴力の哲学」をじっくりと読み返す。あまり読みやすい本とは言いがたい(特に後半部分)んだけど、思考のヒントになりそうな要素が沢山詰まった意欲作だと思う。機会があったらぜひお読み下さい。
とは言え、僕もまだこの本について何かまとまったことを言えるレベルには到っていないのが正直なところなので、ここでは著者の問題意識が表れている部分を引用するだけにとりあえずは留めたい。
「暴力はいけません」というモラルなら、だれでもいえるし、実際、あふれています。…(中略)…「暴力はいけません」という言葉は、決して人の暴力に対する許しがたさの感覚を養っていることを狙ったものではないと思うのです。…(中略)…暴力はいけない。だから、暴力を憎むのだ。暴力をふるうものを憎むのだ。暴力をふるうものには暴力を ― このような言表の連鎖を、「暴力はいけません」という言表は決して排除するものではない。
このようなモラルは、好戦的な、しばしば残忍ですらある暴力を退ける要素をはらんでいるわけでは決してない。むしろそれを濃密にはらむことさえあるのです。いま流通するようなかたちでのこのようなお説教的な言表がもくろんでいることは、この世界に満ちている様々な力を感受し腑分けする能力をつぶすことです。そのことによって人は暴力に対する感覚を磨耗されているのです。
アメリカやイスラエルによる大量破壊兵器を使った虐殺も、パレスチナの子供が戦車に向かって石を投げる行為も、全て同じ「暴力」という名で括ってしまって良いのだろうか。力の「質」を見極めるためにどのような「基準線」*1を引きうるのか。
チェチェン、パレスチナ、イラクなどで現象している強大な権力による一方的な抑圧・切り捨てに対して、「弱者」がこの世界に占める時・空間を確保する為に、いったい「抵抗・レジスタンス」という行為はいかに定位されるべきなのか(いかにありうるのか)。
*1 ちなみに著者はこの言い方に賛成しないと思う。著者は何らかの形で実体化・固定化された基準線に従って「正しい暴力」と「悪い暴力」を教条的に(アメリカ=正義(自由と民主主義の体現者)→故にアメリカの持つ兵器は正しい?)区別すること自体を批判している。「このような発想は、そもそも暴力を腑分けしているようで、見極める能力の欠如があらわれています。」

