ある行為に対する「情状酌量」は何故為されるのか。それはその行為の理由が合理的な文脈、理解可能な文脈に位置づけ直されるからだ(そのような理由からそのような行為に到るのは、理解出来る、という場合にそれは為される)。
一般的に、犯罪行為を裁く際には行為の理由(動機)が必要とされる。けれどもその理由は何であっても良いわけではない。犯罪の凶悪・残忍度と行為の理由の吟味度には正の相関関係がある。
「万引き」に対しては「魔がさした(=特に理由などない)」というものですら認められる(場合によっては許される)ことがあるが、「サリンを撒いて何人もの人を殺す」とか「小学校に押し入ってナイフで小学生を何人も刺し殺す」というケースでは、どのような理由であれ構わない、とはいかない。
宅間守は公判中実は様々な行為の理由を語っている。けれどもそれは一つとして「情状酌量」に値するもの、としては認められなかった。「宅間被告は最後まで、何故あのような犯罪を犯したのか、について口を開くことはなかった」という論調を見かけることがあるが、それは「口を開かなかった」のではなくて「理由として相応しくない、と無視された」だけのことだ、と僕は思う。
「行為の理由の吟味度の高さ」は、「普通、(この社会に住む)人はそのような理由ではそのような行為をなすことはない」という、その社会において人として扱われる為の「基準・条件」を暗示する(そのような条件を前提にしない「人」はまさに「人でなし」となる)。ただしそれは人為的(反自然的くらいの意味合い)であり虚構である。けれども、その社会において人として扱われる為に、僕たちはその基準に自らの行為の理由を合わせていかなければならない。そしてその基準はいつの間にか内面化さえするだろう。
その事態をカミュは「自己欺瞞」と呼んだ。彼が造形したムルソーは「ある行為を為すに相応しい理由の基準」なるものの虚構性を鋭く暴き、それを拒否した。そして彼は社会から排除された。彼が死刑になったのは殺人を犯したことではなく、その理由がその行為を為すに相応しくない(=「人でなし」)と判定されたからだ。
「それは虚構だといって拒否すればこの社会が解体してしまう。それはこの社会が成り立つ条件を構成する超越論的な基準なのだ」というある種ありふれた反論についても「この社会が維持することに価値を認めない、そんなことはどうでもいい、という超越的な立場からは無意味だ」と言うしかない(例えば、全ての虚構を拒否するムルソーが立っているのはこの地点だ)。そしてその立場に立ってしまった人間に「情状酌量」なるものがもはや何の意味も持たないことは明白だろう。
ただ「いっさいは作りごとで、虚構に過ぎず、生きるに値しない」という人生を「生きる」ことは出来ない(「いっさい」が文字通りの意味をもつ場合)。永井均の言い方を借りれば、生きるに値しないと「言う」ことと、「文字通り」生きるに値しないことは永遠にズレ続ける、ということになるだろうし、宮台真司的に言えば「超越」はパターン化された「内在」でしかない(=外部に立つことは出来ない)、ということだ。
いま目の前にあるモノ全てをまとめて否定した人が、別の何かを肯定しその価値に向かって生きている(つまり別の「生き方」を生きている)、ということは必然的ですらある。もちろんその「別の何か」も虚構であり、否定することは出来る。そしてそれは同時にさらに別の生き方の再発見(再発明)でもあるだろう。ムルソーも「いっさいは無価値だ(生きるに値しない)」と「文字通りのいっさい」を拒否できたわけではない。彼は「いっさいは無価値だ」と言って「目の前にあるいっさい」を否定し、まだ見えない何か(より確実なもの・価値)に向けての別の人生のあり方(パターン)を暗示し、発明しえたに過ぎない。「超越」は「内在」に必然的に堕する、というわけだ。
虚構を拒否し、「人でなし」として振舞い続けた宅間守も僕たちとは異なる人生のあり方、ある価値に向かって生きる人生を発明したのかもしれない。ただ、ムルソーは、彼が発明したその人生のあり方を共感を持って肯定されたが(だから「異邦人」はあれだけ読まれた)、宅間の場合はそうではなかったということだろう。そしてそのことが不幸であるのか、幸福であるのかさえ、「こちら」側にいる僕たちにはもはや知りえないことなのだろう。

