sarutoraさんのEntryとComment欄
flapjackさんのEntry
tokyocatさんのEntry
をとても興味深く読みました。
関連する議論として僕が思い出したのはcharlieさんの〈労働-セキュリティ-信仰〉というEntryと稲葉振一郎さんの「経済学という教養(2章&7章)」といったところでしょうか。
いま現在日本で、公務員どころか民間労働者であっても、労働条件の向上を訴えたストライキを行うというのは、支持を得にくいどころか場合によっては非難さえされるような気がする。「労働条件がきついのはみんな同じだ」、「ストによって消費者たる我々がどれだけ迷惑するか考えろ(身勝手だ)!」、或いは、「そんなに文句があるなら会社を辞めろ(自分で起業しろ)」、「会社に依存しているくせに甘えたことを言うな」、そんな罵声の数々がいまにも聞こえてきそうだ。
こういった罵声を浴びせるであろう人たちは、おそらく、エリートや資本家ではなく、「勝ち組/負け組」の論理を保持し、なおかついまだエリートへの仲間入りをも果たせずにいる「ヘタレ中流」の人たちなのではないだろうか。
このことについて稲葉さんは、「人生サバイバル法指南本」が巷に溢れかえる現状を指摘しつつ、こう分析する。
その大前提は、日本社会の不平等化は単なる現実、既成事実であって、良いとか悪いとか言っても始まらない、もはやどうしようないことなのだ、というものだ。これらの本で問題とされているのは、そこでどう個人がうまく立ち回り、少しでも上へ脱出するか、であって、この傾向自体に歯止めをかけるとか逆転するという選択肢は考えられていない。(「経済学という教養」P35)だからこの国では「小泉構造改革」への支持がなかなか落ちない。「構造改革」は「既得権益」を無効にし、より市場原理を徹底させ、ある種の公平さを目指したものだ、と理解されている。これがタフネスエリートからみて好ましいのは当然だが、「中流」の人たちは、またそれとは違う観点から支持を与えているのでは、と稲葉さんは言う。
「中流」たちにとって「構造改革」は別にそれが正しい、よりよい政策だから支持されるわけではない。ただ単に「勝ち逃げ」しようとする自分にとって邪魔になる度合いが少なそうだから、消極的に支持され、あるいは黙認されている、というより「放任」にすぎない。(同上p35)このようなある種のエゴイズムは、「勝ち逃げ」にはそれ相応の「頑張り」が必要で、怠惰な奴が甘え、落ちこぼれるのだ、という前提に立つという意味では一種のモラリズムでもある(sarutoraさんの指摘する「おれたちはこんなに苦労してるのに、あいつらは許せない」という敵意は、おそらくモラリズムの裏返しだし、今思えばプロ野球の選手会のストが支持を得られたのも、古田の涙だけが原因ではなくて、ストの目的が「労働条件向上」ではなく、「怠惰な奴は許さんモラル」に抵触しなかったこともあるような気もします)。
勝ち抜けない奴は怠惰、不道徳、というこのモラリズムは絶え間のない「勝ち抜け」の必要性を強迫し、「勝ち抜け至上主義」を駆動する。そして焦点は「いかにすれば勝ち抜けるか」というところに移り、結局それは、杉田さんが指摘するように(2004.3.1参照←現在リンク切れ)労働者同士、末端同士の些細な差異を巡るいがみあい、足の引っ張り合い(「あいつよりは私の方がマシだからより優遇されるべき」、というような)を招き寄せる。そうして、労働者は単なる「扱いやすい労働力」として、分割統治(By pavlushaさん)され、それはさらに足の引っ張り合いの次のラウンドのゴングを鳴らすんだろう。
エゴイズムをある種のモラリズムが下支えしているという意味で、実はこの悪循環を断ち切ることはなかなか難しいのではないか、と僕は少し悲観的に考えている。もちろん景気回復・パイの増大がきちんと実現さえすれば(「弱肉強食は逃れ難い現実」という前提そのものが崩れれば)、ある程度問題は解消するんだろうけど。

