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2004年10月14日

ドーピング

Thinking

とりあえず2006年サッカードイツワールドカップアジア最終予選進出決定を果たした日本代表におめでとうと言っておく。全体的にはつまらないサッカーだったけど、とにかく結果が欲しい試合だったから仕方がない。それでも鈴木の体を張ったファイトや鬼神のごとくクロスボールを跳ね返し続けた中澤にはやっぱり感銘を受けた。

ただオマーンは国内プロリーグもなければ代表強化費だって日本とは比べ物にならないわけで、その点からみると苦戦してはいけない相手だったということも言えるかもしれない。

で、話はここからが本筋。そもそも「日本代表」は、掛けられている代表強化費という面では間違いなく世界有数の金持ち集団だ。それはもちろんサッカーに関してだけではない。野球のアテネ五輪代表チームに関してもその贅沢ぶりがちょっとした話題にもなったし、柔道の谷亮子は何人もの専属の練習相手を雇い、水泳の北島康介は専用のスタッフチームを丸抱えするなど、資金面、環境面でのバックアップの手厚さは、他国の選手を(おそらくは他の自国の選手をも)圧倒していた。

スポーツ界は、オリンピックのメダル獲得数上位国を見れば分かるように、資本力が物を言う時代に確実に入ってきている。金があれば、科学的トレーニングを始めあらゆることが可能になる。が、なければ極端な場合練習に専念する事すらままならず、メダルなど夢のまた夢となる。

つまり僕が言いたいのはこうだ。これは「薬物ドーピング」ならぬ「資本ドーピング」であり不公平なのではないか。薬物投下が禁じられるべきで、莫大な資本投下が許されるのは一体どういう基準に基づくのか。

そもそも薬物ドーピングはなぜいけないのだろうか。日本アンチドーピング機構のサイトを覗いてみるとこんな事が書いてある。

(1)選手自身の健康を害する
(2)不誠実(アンフェア)
(3)社会悪
(4)スポーツ固有の価値を損ねる

(2)~(4)は色々理屈をこねてはいるんだけど要するに「アンフェアだからダメ」という意見にまとめられるので、彼らが言うアンチドーピングの理由は(1)健康に悪い(2)アンフェア、ということに落ち着きそうだ。

ちなみに(1)は実は明確な反論にはなっていない。これによれば副作用の殆んどないドーピングが可能ならば「OK」を出さざるをえないわけで、一種の潜在的賛成論ですらある。また、そもそも健康を害する云々は基本的には(絶対的にとまでは言わないけれど)他人にとやかく言われることではない。さらに、「健康を害する」という選択肢を考慮したうえでなおドーピングを行うという決断をした者に対して、「健康を害するからダメ」と再度繰り返すのはナンセンスでもある。

問題は(2)「アンフェア」だ。実は筋肉増強剤をいくら打っても、厳しい練習を行わなければ効果はない。その点では「楽していい成績が出る」というイメージは少々的外れだ。また「薬物を使ってでも」というある意味必死な選手が、手を抜いた練習をしているとは思えない。

つまり「厳しい練習を積まなければ結果がでない」という点では「薬物ドーピング」も「資本ドーピング」も変わらない。もし資金面で問題を抱えた選手が薬物(それが安価に手に入るとして)で、裕福な国の選手との「差」を埋めようとする時、果たしてそれは不公平と言えるのだろうか。

柔道の元オリンピックメダリスト田辺陽子は「嘘をつく、または自分の実力を外部の力によってカサ上げすれば、一生良心の呵責に苛まれるはずだ(意訳)」と言い、ハンマー投げの室伏幸治は「真実の神オリンピア」の詩を読み上げた。僕はそれは自己欺瞞だと思う。彼らは自分たちの行っていた「資本ドーピング」の「不公平さ」についてナイーブだっただけだ。

「彼らはIOCルールに従っていただけで、とやかく言われる筋合いはない。どれだけ資本投下がされようとルールはそれを禁じていない」という反論に対しては、そのルール自体、「不公平の防止」という観点、価値からみて問題があるので無意味、と言いたい。「ルール」は自己正当化できない。ルールは(例えば不公平の是正というような)「ルール外」の価値観に基付けられていなければならない。デタラメなルールの存在が、良心の呵責という「害」を引き起こすのなら、ルールの方が改変されてもよいはずだ。

結局僕は、ドーピングを全て認める、としても善いのではないかと思う。どこにもありもしない「公平さ」のくびきからはもういい加減自由になって、小泉義之じゃないけど、ドーピングによってどのような「怪物」が生まれ、どこまで到達できるのか、そんな未来のワクワク感に賭けてみても善いのではないか。アテネオリンピックでは殆んど世界新記録が出なかった。頭打ち傾向は明らかだ。自明の標準値で「人間てしょせんこんなもの」感で閉塞するよりは、ある意味健全とも言えるんじゃないか。資本も薬物もガンガンやればいい。「人間は何処まで変化するのか」、それがいつかスポーツの新しい愉しみ方になるかもしれないのだ。

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