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2004年11月03日

政治ゲームの彼岸

Iraq

稲葉さんのサイトで見つけた、小泉義之氏のインタビュー('97.7.20)。

「他者と我々」という問題設定をする人は、国民や民族をユニットにしてしか思考していない。そんな思考法を捨てなければ、死者を弔うことにはならない。
たとえば先日、イスラエルとパレスチナで戦闘があって、パレスチナ人が何人死んで、イスラエル人が何人死んだという把握の仕方がされる。卑しい思考法です。直ちにやめるべきです。ぼくは、誰が死んだのか、誰が殺されたのか、そして誰が殺したのか、名前を知りたい。戦争の問題でも同じです。誰が死んだのかということだけが大事であって、誰が引き金をひいたのか、それを拒めなかったなら誰が強制したのかということにしか関心はない。何千とか何万とかの数字の問題ではないし、それを日本人とか中国人とかくくることが問題なのではない。従軍慰安婦をめぐっても、誰か特定の男たちとの関係の問題であって、まさにそこで決着をつけなければならない。

とにかく、死者の名前を思い起こさないような論争は、およそ無意味な無駄話にしか見えない。たしかに現状における国家的、政治的責任の取り方を考えると、国家や民族というユニットで考えることになるし、それ以外に救済の道はないように見える。一応、それならもっときちんとやれとしか言いようがないけれども、やはり腹をくくってそんな道は捨てなければならない。実際特定の人間が特定の人間によって殺されたということから出発し直すと、最初からアプリオリに国家や民族をユニットにする思考法はまったく欺瞞的であることがわかるし、そんな思考法こそが戦争を引き起こしているとわかってくる。そんな思想は捨ててもらわないと困る。捨ててもらわないと何も始まらない。

今回の殺人犯たちは「ザルカウィ一派 or アルカイダ」=「アメリカに敵対するもの(の表象)」の看板を背負わされ、殺された香田証生さんは、犯人によって「アメリカを支持する日本人」という看板を、また国内的には「ニート」、「テロリストの犠牲者」、「日本政府のアメリカ追随政策の犠牲者」、というように様々な陣営から様々な看板を背負わされた。そういう思考法をアプリオリなものとする中で、政治的陣取りゲームが駆動しているのだ。

だが、どれが正しい看板か、どの看板とどの看板が対立(あるいは協調)すべきなのか、に果たして意味があるのか。

香田さんはこういう思考法、看板・党派性いっさいを虚構として拒否したからこそ(疑ったからこそ)、「戦争は見てみないと語れないでしょう」とイラクに出かけたのではないか。だとすれば僕はそういう衝動を少なくとも理解はできる。

現地を見ることなく(現地特派員を全て引き上げ)、自らの拠って立つ党派性からオートマティックに帰結する紋切り型のレトリックや言説を弄び*1、政治ゲームを繰り広げている既存の大手メディアに、彼を「不可解」だと嘲る資格はない。それは彼らがいかに特定の死者に無関心で、なおかつ政治ゲームに毒されているか(そのことしか頭に無いか)の証左でしかない。

もちろん「どの看板も背負わない」というのも一つの政治的ポジションであり、政治ゲームの内部から脱しえてはいない。けれども既存の政治ゲームに現を抜かし、一度でもそれを疑った事の無い人間にそれを言い、貶める資格は無い。もちろん僕を含めて。

*1例えばシバレイさんのEntryを参照。

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