突飛なことと思われるかもしれないが、「国益」という単語を好んで用いる人たちの議論のほとんどが「都市伝説」化している気がする。
例えば、「アメリカとの外交関係が冷え込むと日本経済は立ち行かなくなる(だからアメリカの側につくことが国益だ)」というお馴染みの紋切り型で言えば、それはまず第一に、実証的な根拠が何もない、という意味で「都市伝説的」である。そして第二に、結論において曖昧、抽象的なイメージしか提示されていない、という点でやはり「都市伝説的」と言える。第一の点については以前にも書いたので繰り返さない。外交関係が多少冷え込んだくらいで経済的な関係が完全に断絶することなど、およそ現実的にはありえない。というわけで、ここで僕が取り上げたいのは第二の点の方だ。
都市伝説には、出所不明、事実性が薄いといったこと以外の特徴として「曖昧さ」がある。同じ由来のものと思われるものでも、場所によって、登場人物や、結末・結論が微妙に変わる事が少なくない。例えば「トイレの花子さん」に遭遇してしまうと具体的にどのような被害を受けるのか、その結末ははっきりしていない。ただ都市伝説が流布する為には、この種の「曖昧さ」が不可欠なのだろうなとも個人的には思う。曖昧で多様な読みを許すからこそ、人はそれに多種多様な主観(不安であったり怖れであったり)を投影できる。
ちなみに「結末が曖昧」だからこそ、「トイレの花子さん」は恐ろしいのだと言える。「何が起きるか分からない」ことにこそ、人は本当の恐怖を抱くからだ。
で、話を元に戻すと、そもそも「立ち行かなくなる」とは一体どういう事態を指すのだろうか。「立ち行かなくなる/立ち行く」の基準はどこに設定されるのだろうか。結局この「立ち行かなくなる」というのはどこまでいっても曖昧なイメージに留まるのではないか。ちなみに類語としては「~しなければ日本は崩壊する」、「~しなければこの国はまさに亡国の危機を迎えることになる」といったものが挙げられるのだけれども、これらも、曖昧なイメージの提示にすぎず、中身が無いという点では「立ち行かなくなる」と異なるところがない。
このように結論・結末が判然としていない「国益論」は、結局のところ「何が起きるか分からない(だから私は不安だ)」と言っているに過ぎない。論者の不安が、曖昧な内容の流言に投影されている、という意味でそれは都市伝説的であり、言ってみれば不安や、怯えの表明なのだ。
ここからは蛇足だが、僕のスタンスは、日本は例え唯一の超大国アメリカに対してであろうと、言いたいことは言えるし、率直な批判も可能なくらいの足場は既に築かれているというものだ。このスタンスを否定するだけの実証的な根拠を僕は寡聞にして知らない。「計算可能な国民益」=国益を算出する議論は、もちろん一定の制約条件を前提にしなければならないとは言え、「イメージ国益論者」が煽るほどのきつい制約条件は、今のところ存在していないと思う。
だとすると、問題は多分その先にある。制約条件のなさ=「自由」というのはある意味で重荷でもあるからだ。「~しなければ国益を損なう(従って~を選択せざるをえない)」という消極的議論よりも、「~するべきだ」、「~はする価値がある」という積極的議論の方がはるかに難しい。事実、国連安保理の常任理事国入りの希望を表明する際にも、この国の政治家は「常任理事国になって何をしたいのか」をロクに語ることが出来なかった。宮台真司の「内発/不安」の議論はここでも該当するのかもしれない。つまり、いつも消極的議論に逃げ込む(消極的議論しか展開できない)「イメージ国益論者」は、将来やりたいことが分からない、という「自分探し」の若者を、どこまでいっても笑えないのだ。

