「月刊PLAYBOY」で森達也の新連載「A3」が始まったことを知る。テーマは「麻原彰晃への新しい視点」。連載第一回目は「傍聴」。
森達也が麻原裁判を傍聴してすぐに浮かんだ疑問は「麻原彰晃は精神疾患なのではないか」だった。不規則発言だけならまだしも、公判中に失禁を繰り返すなど、端からみて彼の状態は明らかに普通ではなかったからだ。
森にそれについて尋ねられたある社会部の記者は「詐病である可能性はほとんどないでしょうね」とあっさりと答えたという。おそらくこの裁判に居合わせた人(検察、裁判官を含め)で一度でも彼の何らかの精神疾患の可能性を疑わなかった人はいないのではないか。にもかかわらず、これまで彼に精神鑑定が認められたことは一度もない。回復の可能性についても、そもそも麻原は精神疾患ではない、という前提に立つので、治療すら行えない。
また問題の「不規則発言」についても、その一部(とされているもの)はネットで確認することが出来る(その1・その2・その3・その4)。が、発言が本当にこの通りだとしたら、これを一人芝居として淀みなく行うことはロバート・デ・ニーロですら不可能なのではないか、テンションの維持が難しく、必ずどこかで詰まってしまうはずだと、森は言う(森には役者経験がある)。これをもって「現実と向き合おうとせず無責任」だとか、「自己弁護」だと主張するのはいくらなんでも無理がある。少なくとも分裂病など精神鑑定の必要性が問われて然るべき事態ではないか、と。
けれども先日、弁護団が麻原の精神的疾患を理由に公判停止と精神鑑定の申し立てをした件もあえなく却下された。却下の決定を下した東京高裁の須田裁判長は「受け答えは自然で、発言の意味を理解している」と発言しているが、無罪になりたいが為に法廷でわざわざかくのごとき演技をする「狡猾な」人間が、娘の前ではできない「自然な受け答え」を、どうして裁判官の前でするだろうか。*1まったく不可解としか言いようがない。
要するに結局、麻原彰晃の判決は最初から下っているのだ。彼は死刑で「なければならない」し、オウムの引き起こした犯罪事件の責任者で「なければならない」。それ以外の結論はありえない。ルールは全てがその方向に適用されるし、判決理由も事実上一切が後付けに過ぎない。
だが例えば「(麻原は分裂病で責任能力などなかったが)部下たちが暴走した」というシナリオはありえないものではない、と森は正当にも指摘する。事実、この国は半世紀前「そういう事態」を経験し、総責任者であったはずの男は免罪された。システムの核が真空であるが故に周囲がそれを忖度し、暴走する。しかし暴走した部下にとってみれば、それは紛れもなくシステムの核からの「命令」にほかならない。こうして「責任」の在り処は特定できず、誰もが無責任となりうる…という事態は、僕たちが初めて出会うものでは決してない。また戦争以来久しく絶えて無かったことでもない。現代に生きる僕たちとっても寧ろ見慣れたものだ。
けれども、ある者(例えば天皇)は免責され、ある者(例えば麻原)はその可能性すら顧慮されない。このことは、日本では責任の所在が政治的配慮、国民感情といった極めて曖昧でエモーショナルなものに左右されることを示している。「これ以上の裁判など無意味」、「麻原は当然死刑なのだから、一審だけで十分」といった言説は、例えそれが麻原裁判の弁護団の弁護方針(例えばひたすら重箱の隅をつつくような無意味な質問を繰り返す、など)への正当な批判を含んでいるとしても、その機能の大部分として、結局のところ「その曖昧さ」の霧の深さを増すことに資するだけなのではないか。
またここではさらに皮肉な事態が起きているとも言える。それは「麻原を死刑にした責任は誰にもない」ということだ。検察や、裁判所は国民感情に「命令された」と思っているだろうし、国民は「正当な司法手続きを踏んだ上で麻原には死刑判決が下った」という思いしか持たない。今や責任の所在を明らかにするはずの裁判が、「無責任の体系」の上になされているのだ。
森が懸念するように、そういったことにこの国がどんどん無自覚になっているとしたら…一体そんな国にはどんな未来が待ち受けているのだろうか。
今日は一年を締めくくるEntryを書こうと思ったんだけど、それにしてはあまりにも面白い記事だったのでそれについて書くことにしました。というわけで、今年一年付き合って頂きありがとうございました。来年もよろしくお願いします。
*1もちろん、逆に娘や弁護団、精神科医が全員グルになって嘘をついている、という可能性もないわけではない。だとしても、少なくとも精神鑑定の申し立ては認めても良かったはずだ。それすらも拒否した高裁の態度には何か裏がある、と思われても仕方がないだろう。

