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2005年01月09日

健全な売り手/賢い買い手

Thinking

東浩紀×矢野直明対談から抜粋

(東)  監視社会について話をすると、「みんなが監視社会はいいと思っているのに、なぜ問題にするのか」とよく言われます。しかし、これは議論が逆さまになっている。問題は、「どうして僕たちはみな監視社会を欲望するようになってしまったのか」なのですね。 これは具体的な話です。産業社会化が進んで、商品が物から「差異」になった、というのは一昔前よく言われた話です。しかし、いまや「不安」が商品にされている。たとえば、子どもにGPSを付けて居場所をチェックできるサービスが人気があると言われる。それはそうなのでしょう。しかし、企業側が何もしないのに保護者が集まって運動が起きたわけではない。広告宣伝で不安をあおり、その結果として作られたサービスなんです。その本質は、記号や差異が商品だ、と言われていた80年代の消費社会と変わらない。それは「赤い服より青い服が格好いい」という言説が人々の欲望を作り出していくように、いまは、「GPSがないよりある方が安心」という言説が人々の欲望を作り出している。言説を流してニーズを作り出し、そのニーズに応える形でサービスを提供する。監視カメラも1台より2台の方が安心でしょう、2台より3台の方がいいと、どんどん増えていく。いまや安心とリスクは新しい商品を生み出す道具になっています。

したがって、僕は、単純に人々が監視社会がいいと言っているとは思わないのです。ウルリヒ・ベックが『危険社会』で指摘したように、僕たちは「リスク」をつねに意識しなければならない社会に生きている。それは言い換えれば、リスクが商品になる社会ということです。そのなかで監視が求められている。しかもその欲望はますます強化されている。その裏にあるのは、単純な資本の原理です。服のデザインより不安の方がおカネになるというだけのことです。昔は不安の商品化といえば保険業でしたが、いまはダイレクトな技術として不安をコントロールする製品やサービスができるようになった。そのためどんどん監視の密度が高くなっている。

(矢野)  奈良市の小学校1年生が誘拐殺害された事件では、ケータイが皮肉な役割を果たしました。子どもの安全のために持たせたケータイが、必ずしも防犯に結びつかなかったという例もありますしね。

(東) そうなると今度は、電源を切ると自動的に連絡が入るようなGPSケータイサービスが開発されるのでしょうね。ケータイをもっていても誘拐されたのだから、セキュリティ・サービスは実は役立たないのではないか、という議論には繋がらない。不思議です。

リスクの商品化といえば保険なのですが、保険といっても地震などの被災はカバーできないように、保険をかければ防げるリスクと防げないリスクがある。保険は集団でリスクをシェアして、ダメージをならすことが役割ですが、誘拐殺人といった危険に対して、子ども全員にケータイを持たせても何の保証にもならないでしょう。ケータイにはそうしたダメージを軽減する機能はない。リスクの商品化といったときに、実際にはリスク軽減効果がないものもあることを認識すべきです。言わば「リスクのリテラシー」が必要になるでしょう。

いまや人々はみな監視されたがっているのだ、という粗っぽい話は、バブル期に広告代理店が「人々はみな差異を求めて」と言っていたのと同じ精度しかもたない。人々の欲望の現れは時代によって簡単に変わる。そして、人々の欲望をつねに全肯定するのは単純に思考停止です。宗教団体のつぼでも、買っている人は買いたいから買っている。だから仕方ないのだ、では何も議論は進まない。セキュリティへの欲望にもそれに近い部分がある。本当の意味で安心で安全な生活を望むのと、監視カメラやGPS商品に多額の金を投じるのは違うことなのだ、ということを明確にするべきだと思います。

いくつかミーガン法について議論したBBSなどを見ると「一人でも楓ちゃんのような子を救えるのならそれこそが大切だ(有効性の有無など大した問題ではない)。もちろん加害者の人権など知ったことか。」という意見が散見される。

携帯電話のGPS機能と同様、一度成立した(=商品化した)ミーガン法はそれがどんなに役に立たないものであっても、「だからミーガン法は廃止せよ」という流れにはならず、「法による監視をより強化せよ」という話にしか繋がらないのではないか。つまりここでもやはりリスクマネージメントについてのリテラシーが要求されているのだ。

「加害者の人権より子供の人権を」という最近よく耳にするようになったテーゼは実は「親である私の安心する権利を守れ」という主張の言い換えに過ぎない。「加害者」は「元加害者に過ぎず、もしかすると再び加害者になるかもしれない人」のことだし、「子供」も「まだ権利を侵害されてはいず、もしかしたらこれから侵害されるかもしれない人」であって、実はどちらも具体的な「紛争当事者」ではないからだ。つまるところこのテーゼは親による「私は不安だ」という政治的言明に他ならない。

では親には初めからその解決策(=商品)としてミーガン法への欲望が存在したのだろうか。そうではないだろう。そもそも僕たちは性犯罪者の再犯率が高いかどうか、性犯罪はエスカレートするかどうか、ミーガン法に予防効果があるのかどうかも何も知らないからだ。ある特定の方向へ不安を煽り、その不安を解消する商品を買わせる。つまりそこにはGPS機能と同様「ミーガン法がないよりあったほうが安心」という言説が、ミーガン法を欲望させる、いわばマッチポンプしかない。

問題は本当にそれがリスク(子供が性的虐待を受ける可能性)を軽減させるかどうかを無視していることだ。「元性犯罪者こそリスクだ」という煽りは、子供への性的虐待の最大の加害母体は近親者や教師だということを無視しているし、またmacskaさんは、ミーガン法が再犯をかえって促しかねない可能性も考慮せよ、と警告を発している。結局ミーガン法はリスクをマネージメントする方法としては、現時点では極めて不確実性が高く、とてもじゃないけど「一人でも救えれば」などいう情緒的な言説によっては正当化し得ない。

もちろん行政による「親が望んでいる、だからそれに応えるのだ」という言説も無責任に過ぎるのは明らかだ。だとすれば結局今求められているのは、「霊感商法のセールスマン」や「押し売りに弱い消費者」でもない、健全な売り手と、賢い買い手による丁々発止の交渉なのではないだろうか。

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