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2005年01月21日

「息をつく空間」

Thinking
That erroneous statement is inevitable in free debate, and that it must be protected if the freedoms of expression are to have the "breathing space" that they need to survive.

(自由な議論においては、間違った主張は避けられないものである。そして、表現に関連する様々な自由が、それが生き延びる為に「息をつく空間」を持つものであるとするならば、間違った主張であっても保護されなければならない。)

アメリカにおける表現・報道の自由の憲法的保護の重要性を高らかに謳ったブレナン判決の中の一文だ。

この判決が出るきっかけとなったのは1960年ニューヨークタイムズ紙が、当時偽証罪で起訴されていた、公民権運動の指導者キング牧師を支援(弁護)する為に呼びかけた、資金提供の「意見広告」だった。この意見広告には当時のアラバマ州モンゴメリー市警察による、学生たちへの弾圧の内容が記されていたのだけれども、しかしそこには残念ながらいくつかの誤った記述があった。そこでL.B.サリバンは、この間違いをもって「当警察署コミッショナーたる自分に対する名誉毀損」としてニューヨークタイムズを訴えたのだ。州最高裁でも、サリバンの訴えは認められていたが、連邦最高裁ではその訴えを退ける逆転判決が出された。これが担当裁判官W.J.ブレナンによる「ブレナン判決」だ。

「公共の争点に関する討論は制約されず、たくましく、広く開かれていなければならず、それが政府や公職者に対する激しく辛らつで、時には不愉快なほど鋭い攻撃を含んでいても無理はない、という原理に対する深い国民的なコミットメントの存在を背景にして、本件を処理する」
ブレナンはこう宣言し、公職者への名誉毀損表現は「現実の悪意(actual malice)」つまり表現者がその表現について誤りであることを知りかつそれを無視したことを、「公職者側が」立証しなければ、表現者は賠償の咎を負わない、とした。つまり近代自由主義社会では、多少の間違いよりも、表現する者が萎縮してしまうことの有害性の方がより重い、と彼は主張したのだ。

僕たちの認識と能力は当然に有限であり、誤ることを避けることは出来ない。内田先生が述べているように、唯一正解の議論のみ流通することを許される、というのは非人間的で、不可能な要求だ。誤りうる存在である僕たちに、誤り、偏りが許されていなくて、どうして自由に議論が出来るだろうか。

ちなみにこの理屈とそのメリットを戦争批判として展開したのは丸山眞男を始めとする進歩派知識人たちだった。日本が戦争に負けた理由を彼らは「自由で多様な言論がなかったこと」と分析した。軍部は軍部で、内部での自由闊達な言論空間の喪失が現状認識の甘さ、戦略の硬直化、情勢変化への対応の遅れを生じさせたし、それを監視・批判するべき報道側も翼賛報道を繰り返し、腐敗した軍部の無謀さにブレーキをかけられなかったからだ。

アメリカには(ブレナンの言うような)言論の自由の大切さに対する深い理解とコミットメントがあったが、日本にはそれが全くなかった。それが戦争の勝者と敗者を隔てた。個人が個人として尊重され言いたいことを言う自由があって初めてその社会は強靭さを持ち、総力戦を戦い、生き抜く資格を得る(=国益の追求が可能になる)のだ、という進歩派知識人の慧眼は未だにその光を失わないものだ、と僕は思う。

冷戦体制下ならいざ知らず、混沌とする世界情勢の中で国益を追求するのは困難を極める。もともと国益計算には共時性と通時性の要素が複雑に絡み合う。つまり、今国民が追求すべき利益とは何か、それを得るための戦略とその妥当性・有効性、といった共時性に関わる要素と、状況の変化の予測、戦略の陳腐化の速度、どのくらいのスパンで戦略を立てるべきかといった通時的要素を含めた、連立方程式を解くことが求められる。

だが常識的に考えて、こんな方程式は解けるはずがない。結局確固たる未来など誰も分からないのだ(これこそが国益だ、といかにもしたり顔で論じる人間のほとんどは無知か恥知らずだ)。だとすれば、次善の策として僕たちに講じることが出来るのは、いかなる状況にも対応できるように、国内に出来うる限り多様な言論を胚胎させておくことだけだ。今、誰も見向きもしないような主張が、将来も同様に無益である、と断定することなど誰にも出来ない。そういったものが存在すること自体が、僕たちの社会における最大のリスクヘッジなのだ。

自由で多様で闊達な言論空間が存在することの条件、コストとして「息をつく空間」が必要だとするなら、その支払いをケチるような輩に国益を語る資格も、この社会のあり方を論じる資格もありはしない。

(参考)
ブレナン判決については、山口いつ子氏「表現の自由論のメタモルフォーゼ(pdf)」を参考にさせていただいた。

(追記)
スワンさんによるEntryをメモ。
NHK番組に圧力はあったのか問題その5の1
その5の2

話は横道に逸れますが、僕が表現の自由を支える(1)個人的価値(自己実現の価値)(2)社会的価値(自己統治の価値)について(2)を主に論じているのは、(1)を論じても一部の人たちにはほとんど通じないのではないか、そういう人たちが増えつつあるのではないか、という感覚があるからです。例えばミーガン法の議論でも僕は「有効性(社会的価値)」についての議論が効くだけで、おそらく「人権(個人的価値)とのバランシング」の議論は切って捨てられるだけだと思うのです。「ミーガン法賛成」と主張する人たちには「それにしたって個人の尊厳は守られるべきじゃないか」という言説は届かないのではないか。長谷部恭男教授の言うような「比較不能な価値」論が近代立憲主義を支えるロジックだとすれば、「比較不能→理解不能→無価値」みたいな空気がそれを侵食していて、近代立憲主義そのものも掘り崩されている、という気がするのです。表現の自由を巡る言説もそれと似た状況にあって、「自分たちの首を絞めない為にも守るべき」というマクロ的な有効性の議論をしておかないと、誰にも届かない気がするというか。僕の苛立ちはそんなところにもあったりもします。

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Comment (4)

人権についての追記、100%共感します。そういう流れになっているんだなあ、と。

僕としては、とりあえず生き延びることを考える、という方向だろうと思っています。
物理的にということではなくて(いや、それも含まれるのかもしれませんが)、発言できる位置と聞いてくれる人を確保し続けるという意味で。

風向きはいつか必ず変わっていくものですし、仮にそれが間に合わなくても、言ったことがどこかには残るでしょうから。

deadletter:

あささん、コメントありがとうございます。
自由の価値が、すべて社会的価値に還元されることへの摩擦、不快感がない社会ってなんなのでしょうね。

>自由の価値が、すべて社会的価値に還元されることへの摩擦

私自身は04年3月の文春差止め事件のときにも、文春サイドがやった表現の自由の危機のキャンペーンに違和感を感じました。
「自分で選んで政治家の娘として自律的に生まれてきたわけじゃないのに、プライバシーないのかよ~少しは悩もうよ」と。

deadletter:

「田中真紀子の娘は公的人物か否か」
「記事内容は田中真紀子への論評か否か」
「報道の自由への萎縮効果という観点から、事前差し止めという処分は妥当だったか否か」
などあの問題は非常に難しい要素を孕んでましたよね。でもそういった議論をすっ飛ばして、
「報道の自由は公的な価値があるので、プライバシー権に優越する。証明終わり。」
という軽率なことを言う人は確かに多かったですね。

ところで僕が最近大塚英志さんの本などを読んだりして考えているのはこんなことです。

スワンさんも以前取り上げられてましたが栗原裕一郎さんのEntry(http://d.hatena.ne.jp/ykurihara/20041229)に登場してくる人たちに一見特徴的なのはその「自尊心の低さ」です。「~をしたいのに何かに妨げられている」とか「自分が否応なしに何かに絡め取られる中で本当の自分から疎外されている」みたいな感覚は「自尊心」とか「自己肯定」がなくては成立しませんよね。

若い世代でそういう人たちの数が増えているのだとすると彼らが例えば左翼に無理解だったり、或いは反左翼に転じるのはある意味当然です。彼らにとって「自尊心」に由来する「疎外」をベースに体制批判をする左翼は、「自分の無能力を棚に上げて他人に責任転嫁する人たち」と見えるでしょうから。

ちなみに、反左翼を掲げる人たちが進歩派知識人に対して「ジャーナリストのくせに」とか「弁護士のくせに」、「大学教授のくせに」などといった権威主義の裏返しの批判をしがちなのも、象徴的です(執拗な朝日新聞批判もその流れなのでしょう)。「社会的評価の高い職業=高い自尊心を持ちうる」という彼らの思いがルサンチマンを呼び寄せているのではないでしょうか。

個々の「自尊心」の低い社会では「個人の尊厳」というものが絵空事に映りがちなのも仕方ありません。「個々人の人格の発展のために…」などと言っても「発展するような自己があるかどうか疑わしい」からです。

さりとて彼らの中の多くも「自尊心」を完全に捨て去ることは出来ていません。「お前はその自尊心に見合うほどの人間なのか」という左翼への反発心は「自尊心」への欲望を逆の意味で露にしています。で、「私は私だ」という感覚を根拠付けてくれるものが身近なところにはない(身近にあるとは感じられない)時、登場してくるのが国家だったり、遭ったこともない靖国の霊だったり、自分が経験したこともない1945年以前の歴史だったりするのでしょう(彼らはよく自虐史観を批判しますが、彼らが尊ぶのは1945年までの歴史で、それ以降の、本来ならそれこそ自分の血肉となってきたはずの歴史は無視されるか否定されるかのどちらかです)。

問題はいかに若い世代が「まともな」自尊心を持てるようなシステムを作っていくか、社会の核である世代においては「まともな」自尊心を回復するか、ということになるでしょうが、やっぱり難しいと思いますね。僕に思いつくのはとりあえず「手始めに景気回復ぐらいはしとこうよ」がせいぜいです。

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