安倍は憲法改正の動機の説明においてよく「日本人の手による憲法」という言葉を使う。この主張に色々と含まれている「議論としての甘さ」についてはとりあえず今は置く。しかし「日本人が自ら憲法を書く=作ることが重要だ」と言っておきながら、例えば国民投票法案では最低投票率規定も設けず、「とにもかくにも成立させればこっちのものだ」的なやり方を図るのはなぜなのか。「日本人が自ら作ったと思える憲法を」とは、「なるべく多くのコミットメントこそ憲法の重要な構成要素」であるということではないのだろうか。
「日本人の手による憲法」=「(手続きにおいて)なるべく多くの国民がコミットした憲法」では必ずしも無いとすれば、それは結局「内容的に」日本人らしい憲法であるということにならざるを得ない。しかしそもそも「日本人らしさ」とは誰が判断するというのか。
思うにそれは「人権メタボリック症候群」に罹った「醜く」・「不健全な」国民ではありえない。「醜い」国民は教育等を通じた「再生」の対象でしかないからだ。「醜い国民」(=彼ら)は「美しい(はずの)真の日本人」を今や覆い尽くさんばかりの勢いで増殖している。とすれば「戦後レジームから覚醒し、戦後民主主義の虚妄から目覚めた人々」(=我々)こそが彼らを正しく導かねばならない。(もちろんその「我々」の側の1人を自認しているであろう)安倍はそう認識している。
だから安倍政権は、国民を基本的に信用していない。自らの考え(特に彼の憲法改正論)が「本気で」支持されるとも心の底では思っていないのではないだろうか。信用されないのは、国民が醜く愚かだからであって、自分の考えが間違っているからではない。彼が事あるごとに岸信介のエピソードを持ち出して言いたいのはおそらくそういうことだ。
「美しい国」をスローガンに持ってくるというのも同様の認識を持つが故の自然な帰結である。彼の認識において今の日本国民は美しくないのだ(現在十分に「美しい」のであれば、それを目標にすることはナンセンスとなる)。繰り返しになるけれども、殆どの日本国民は退廃し醜いが故に、自らの政策・新たな憲法秩序を通じて行われる「再生」の対象でしかない。
国民を信頼していないどころか再生の対象としてしかみなしていない安倍が、いかにして国民から広く支持を取り付けることが出来るのか。これは安倍政権が抱え込んだ根本的な「アンチノミー」であるように僕には思える。さらに付け加えれば、「手段はどうあれ新しい憲法秩序を成立させればこっちのものだ」という感覚はまさに「革命」を志向する革命家のそれであるということだ。
エクストラレポート・ルームより引用。
「安倍さんは、一体何相手に戦おうとしてるのか。話を聞くと、国民が戦う相手だと言っている様に見える」…(中略)…今日それを思い出したきっかけは安倍自身の言動よりも、前も少し話した「閣僚の言葉に“(国民が)○○してくれないと困る”がやたら多い件」について考えていた時でした。いじめ自殺が起きれば「強く生きてくれないと困る」、産むのが健全発言については「産みたくないと言われたら困る」、中国残留日本人が訴訟すれば「手当で不満持たずやって行ってくれなければ困る」、少子化問題・高齢者の生活保護問題では「一人頭頑張ってくれなければ困る」近い内、ほぼ確実に「戦争したくないと国民全員に言われたら困る」発言を安倍もしくは近い誰かの口から聞ける事でしょう。
国民が権利を求めたりとかわがままだから、全ての問題が起こる。国が美しくならない。我々が尊敬されず怯やかされる。だから、国民と戦い制圧し、そのわがままを封じなければならない。
(関連Entry)
「我々」と「彼ら」のポリティクス

