以前から僕のBlogを読んでもらってる人なら、別に僕が普段から天皇制に積極的にコミットしているような人間ではないということは何となく分かってもらえていると思う(僕は靖国神社の成り立ちとか歴史にも全く興味が無い人間です)。とは言え、分かっておられない方のために、念の為言っておきますが前回、前々回のEntryは「自称保守」を名乗る人たちへの単なる「嫌み」です。
この「嫌み」はたまたま、昭和天皇、今上天皇が平和主義者であるから成り立つ(今上天皇に至っては保守派嫌いのリベラリストだ、という話まである)わけで、仮に天皇が東京裁判史観否定派であれば、保守派は堂々と「錦の御旗は我等にあり」と宣言できるわけだ。そしてこれからも天皇制が続く限り(僕たちは天皇を選挙出来ない訳だから)その可能性は常にある。
つまりこういった「嫌み」のロジックは、「米長邦雄騒動」の際に宮台真司が述べたように、諸刃の剣なのだ。「天皇の意思を尊重するなら~せよ(するな)」と天皇を権威付けに用いて政治的な論争を行うことは、この国の政治を、「民主主義下の自律した個人による理性的な討論を通じての政策決定」、という近代国家の本道からどんどん遠ざけ、結局その時々の「天皇のパーソナリティー」という「くじ引き的」要素に委ねてしまう、ということに他ならない。
だから僕の記事については「天皇を軽々に持ち出すな」という意味にとってもらえればよく、それ以上何も含むところはない。この類の価値観を巡る話では保守派は「国民として当然」、「自然な感情」という「抑圧的」ロジックを持ち出してくるわけだけれども、それについて「近代立憲主義の意味を少しは勉強せよ」と正論を言うよりは、「その自然な感情を、この国の自然、自生的秩序の体現者である天皇が持っていないのはどうしてでしょう?」と天皇を持ち出した方が効果があるだろう、くらいに思ってのことだ。
というわけで、これから先仮に国粋主義者の天皇が出てきた時にも、保守派は「自分たちの主張をことごとく否定されている」現在の苦い教訓を忘れず(苦々しく感じていない似非保守が多いこともまた問題なのだけれども)、天皇の政治利用を自重するように。
それから、蛇足。女性天皇についての私見を。
女性天皇は要するに天皇制の延命措置として俎上に上げられているだけだ(もし皇太子妃が男子を産んでいたらこんな議論は誰も口にしなかっただろう)。けれども一番の問題は、それは「延命」になるのか、ということだ。
第一に女系の天皇でも「天皇制」は「延命された」と言いうるのか、つまり「天皇制とは何か」という本質的問題がある。女系天皇に反対する論者の主張の根幹は、女系の天皇など定義上「天皇ではない」ということだからだ。つまり「女系でもよい」という立場と「女系ではよくない」という立場には「天皇制」の理解ついての本質的なズレがある。そしてここには、天皇制とは何か、そもそも天皇は何を体現してきたのか(女系天皇に反対する人たちは、女系天皇は「それ」を体現していないと考えるから反対するのだ)、日本の伝統とは何か、という極めて厄介な問題が含まれている。
第二はもう少し現実的な問題、女性天皇を認め、愛子内親王が即位したとして、彼女は結婚できるのか、という問題だ。
彼女の夫は誰でもいいというわけには当然行かない。出自、職業、女性関係、金銭スキャンダルの有無等厳しい審査、高いハードルが課せられる。また仮にそれをパスし本人同士の意思の有無の確認という段階まで漕ぎ付けられたとして、果たしてエリートに属し自律して生きていける人間が、天皇家のように窮屈なところに行きたがるか、というこれまた非常に難しい問題がある。
「女性天皇容認」という暫定的な延命措置は40年ほどしか持たない(40歳くらいまでに結婚できなければお世継ぎの出産自体が不可能になる)。また例え今回の事態を上手く乗り切ったとしても、将来また同じような問題が起きないとは限らない(いや、かなりの高確率で起きるだろう)。とすれば、「天皇家を安定的に永続させうるシステムをいかに作るか」という課題に答えを出さないなら、どんなに言を弄そうともそれは「先送り」と同じだ。
で、この二つの問題。まず優先的に議論すべきなのは第二の問題の方だ。第一の問題は本質的ではあるものの、それは「天皇家の存在」があってこそ成り立つ問いだからだ。天皇家が途絶えておいて「天皇とはなにか」を議論しても無意味だ。
で、「天皇家をいかに永続させるか」だけど、僕としてはもう象徴天皇制下でそれをやるのは不可能だと思っている。天皇家には権力も基本的人権もない(統治権力が権利の制約を受ける、というのなら分かるけど)。こんな理不尽な地位に彼らを閉じ込めておいて、さらに日本の伝統だとか超越的な要素を全て担わせる、というこの非人道的な制度にこれ以上目を瞑るならば、「お世継ぎ問題」は天皇家における致命的かつ恒常的なリスクであり続けるだろう。
だとすればそのリスクを少しでも軽減させる為に、例えば彼らを「象徴天皇制」という政治システムから解放し、人権を認めると同時に、日本の誇るべき文化的無形遺産として行政による保護と助成を行う、といったような「落としどころ」を早く探るべきだ。
にもかかわらず、特に保守派は「女系は是か非か」という神学論争に現を抜かすばかりで、「守るべきものが消えてなくなるかもしれない」という危機意識があまり見えてこない。保守派の「鈍感さ」は端から見ていて心配になる。


Comment (12)
保守主義の捉え方に異論があります。
たしかに保守主義者は、国王の意向なり国体(国のかたち)なりを"代弁"する。しかし彼らの代理代弁代表(representation)は、常に恣意性を強調したやり方でなされる所に注目すべきと思う。そして恣意的representationを良しとする点にこそ、保守イデオロギーの人をひきつける魅力が存在すると考えます。
だから、天皇自身の政治思想などは本質的にどうでも良いことではないだろうか。
そもそも古代より、日本の天皇に限らず王権の「お言葉」は仄めかしが主ですよね、言わば意向を忖度させるための"釣り餌"。
Commented by: K.I | 2005年02月11日 05:55
日時: 2005年02月11日 05:55
天皇は保守主義における本質的な恣意性を隠蔽するための手段でしかない。そもそも保守主義の言う「伝統」など動員の為の方便に過ぎないのだ。…という割り切った考え方に現在の「自称保守」の方々が納得されるかといえば、それはそれで微妙なところだと思いますね。
Commented by: deadletter | 2005年02月11日 20:56
日時: 2005年02月11日 20:56
「後継者不在による自然消滅」で天皇制がなくなると、平和な民主化でいいですよね。
いかにも、「日本的」という感じでw
Commented by: あさ@逃避日記 | 2005年02月12日 05:57
日時: 2005年02月12日 05:57
書き方が拙かったでしょうか。
>恣意性を隠蔽するための手段
僕の認識は逆です。保守主義者はあからさまに恣意性を強調する、誇示すると言っても良い。
従って、恣意的であることを十分に承知している人達に対して、「手前味噌的俗説」を断罪するのは無効なんです。
>方便
この言葉は宗教用語です。保守主義を把握するためには重要なタームですね。
Commented by: K.I | 2005年02月12日 07:58
日時: 2005年02月12日 07:58
K.Iさん。
恣意性を誇示・強調してしまえば、「伝統」という方便も動員のロジックとして機能しないのではないでしょうか?恣意性を十分自覚している人たちに手前味噌的俗説を断罪するのは無効、というご意見については、僕もそう思います。
あささん。
いつもコメントありがとうございます。確かにそれだといつもの「日本的エンディング」ですね。一部の識者が「イラクに民主主義が根付くかどうか」を議論してましたが、何のことはない。日本も自覚的な民主化が未だに出来ない=民主主義が根付いていない国だったと。
Commented by: deadletter | 2005年02月12日 10:59
日時: 2005年02月12日 10:59
「伝統」と称するものは、曖昧で確定不可能ゆえ機能しています。
例えば日本的伝統とされるのは、公家文化であり武家文化であり町人文化であり百姓文化、弥生農耕文化であり縄文狩猟文化、などなど。多様(=ゼロ記号)な訳ですから、個々勝手なものを「これが日本の伝統だ!」と提示してよい事になっている。
彼らの動員については、確定不可能性を承知のうえで敢えて感情的断定(一刀両断!)をしてみせる仕草がダイナモになっていると思う。
正しいと考えて断言していないのだから、連中の言説は「嫌み」です。「嫌み」に対し「嫌み」で返答する有効性、そこに疑問があります。
Commented by: K.I | 2005年02月12日 13:11
日時: 2005年02月12日 13:11
伝統が確定不能でなんでもあり、というのは分かるのです。でもそこにある種の「正しさ」、「もっともらしさ」を僭称することは必要ないのでしょうか。最初から自らの言説を「ウソ」と誇示・強調する人間についていくものなど誰もいないからです。イデオローグ自身が正しさを信じている必要はもちろんありませんが、(動員されるものを含めて)誰も正しいと信じていないイデオロギーというものがありうるのか、やはり疑問が残ります。
ちなみに例えば「伝統」「国柄」への回帰を主張する保守派の政治家連中ですけど、あれ、僕には割と「本気」でやってるように見えるんですが…あれも演技というか「ネタ」なんでしょうか。
Commented by: deadletter | 2005年02月12日 15:01
日時: 2005年02月12日 15:01
断言できますが、戦前の日本に「天皇は神である」などと信じている人はいなかった。「偉大なる将軍様」云々のプロパガンダを額面どおり受け止めている北朝鮮国民は皆無でしょう。
あんなものを「信仰」できる純朴無知な人間など、現実的に想定できますか?
「誰も正しいと信じていないイデオロギー」は、その機能面が支持されている限りにおいてあり得ます(存在する)。
>自らの言説を「ウソ」と誇示・強調する人間についていく
「ついていく」意識はないでしょう、むしろ積極的に「それがウソであることを特権的に知りうる共犯」として加担しているのでは。
>「本気」「ネタ」
対立する概念でしょうか。「本気のネタ」は十二分にあり得ることです、その代表例として三島事件がよく語られますよね。
Commented by: K.I | 2005年02月12日 19:01
日時: 2005年02月12日 19:01
こんにちは。
>戦前の日本に「天皇は神である」などと信じている人はいなかった>K.Iさん
私は明治憲法下の天皇は、忠君愛国の頂点に立つ父なる存在としてシンボル化され、日常における勅語や神社への礼拝、四大節などの行事、乃木殉死などの事件を通じて強化され集中化されたというふうに考えています。他方で「国民」は、国のために尽くすことが即、天皇のために尽くすことと置換され、神であろうがなかろうが、そうした信仰の社会的事実とは違った次元で、国体とはそういうものというムードが支えられ、イデオロギー的な主体構成がなされていたと。
Commented by: swan_slab | 2005年02月12日 21:03
日時: 2005年02月12日 21:03
K.Iさん。
なるほど。つまりこんな事態がありうるということでしょうか。
スターリンの社会主義、天皇・ヒトラーのファシズム、金正日の独裁体制、などいずれにおいても、それが維持されるために、その下にいる人々が体制の正当性(or正統性)を本気で信じている、ということは必要ない。人々が各々「任意の他者が体制の正当性を信じているはずだ」と「想定」しさえすれば事足りる。
しかもこの「任意の他者が存在することの想定」は「反例的具体的他者」の存在によっては論駁されない(たまたま隣人が天皇制打倒論者であったとしても、「任意の他者は天皇制を支持している」という「想定」は必ずしも崩れない)。従って誰も「正しい」と信じていなくてもイデオロギーは支持されうる(支持されているかのように見える)と。
確かにそういう事態は論理的にはありえます。ただ問題があります。「任意の他者の想定」がどのように成立するのか、ということです。「(自分は信じていないが)みんな信じてしまっているであろう」という感覚が成立するにはやはりそのイデオロギーは何らかの「確からしさ」、「もっともらしさ」に基づくところから出発しなければならないのではないか(突発的に出現するということはありうるのかどうか)。
貨幣なんかもまさにこの「任意の他者の想定」があることによって機能しているわけですけど、これだっていきなり出現するわけではないでしょう。登られた梯子は外されているのでしょうが、梯子が無ければ登れなかったはずでしょう、みたいな。
Commented by: deadletter | 2005年02月13日 06:04
日時: 2005年02月13日 06:04
今頃気がつきましたが、「Dead Letter Blog」この名称は東浩紀の『存在論的、郵便的』からの引用でしょうか。僕の書き込みは、同書44頁138頁あたりで触れられているジジェクによる分析の劣化通俗版のように読める。ジジェクの著作を読んだこともないから別物だとは思うが、言い知れぬ脱力感からタイピングする元気がなくなってきた。(笑)そして丸一日経過後遅レス。
>「任意の他者が体制の正当性を信じているはずだ」と「想定」しさえすれば事足りる
「子供(厨房)」とか「かたくなな信者」、完全無知な反例的他者の想定を含む。
>「反例的具体的他者」の存在によっては論駁されない
その通りですが、誤解なきよう慎重に補足すると、僕は「嫌み」で返答する戦術的有効性に疑問を呈したのであって、論駁不能とは書いていません。
>イデオロギーは何らかの「確からしさ」、「もっともらしさ」に基づくところから出発しなければならないのではないか
前回の書き込みでは避けましたが、何らかに基づくところから出発していることを「否定」しません。swan_slabさんが指摘される、為政者による制度的儀式的工夫を軽視するつもりもさらさらない。ただし、なぜイデオロギー生成および機能を捉らえる基準が「正しさ、確からしさ、もっともらしさ」なのか?「梯子は外されている」、登る手段が梯子だったかすら定かではないと思うのです。
Commented by: K.I | 2005年02月14日 06:06
日時: 2005年02月14日 06:06
「dead letter」は東浩紀さんとは直接的には関係ありません。著作は一応読んでますけど、「存在論的、郵便的」を読む前ですね、メールアカウント取ったのもそれをHNにしたのも。前回の記述のネタ元はバラしちゃいますと大澤真幸「虚構の時代の果て」です。
「梯子」は登れるものなら何でも良いのだと思います。「もっともらしさ」であれ「正しさ」であれ、そして天皇のような「権威」であれ。何であれ「それ」が定義上「梯子」です。でもそれがK.Iさんが言うような「恣意性の誇示・強調」であっては登らせるきっかけが持てないのではないか。登らせてしまえば根拠なんて不要ですが、その為にも恣意性はいったんは隠蔽される必要があるのではないか、というのが僕の考えです。
それからこの議論はあくまで「論理的可能性」の話であって、「現実的には」イデオロギーの実体的根拠を信じている人もいると思います。一人もいなくても成り立つかもしれませんが、やっぱりそれは考えにくい。
「保守」であることを前面に出す政治家連中はたぶん自分の思想には確たる裏づけがあると思ってるし、「天皇に靖国参拝を要求するとは不敬ではないか」と書いた僕の一連のEntryに「いや、陛下は自分たちに賛成かもしれない。憶測でものを言うな(彼らこそ今まで散々憶測でものを言ってきたのにちょっと異論を言われたくらいで「被害者面」するとは厚かましい)」と感情的な反応をしてきた人もいますし(これって根拠への欲望じゃないですかね)。実際これらの記事へのアクセスって通常の10倍くらいありましたから。やっぱりみんな気になるんでしょう。
なので戦術的にもそんなに悪くないのではと思ってます。
Commented by: deadletter | 2005年02月14日 09:12
日時: 2005年02月14日 09:12