「現実/理想」論の続き。今回はこの枠組みの歴史的変遷を概観する為に社会学者見田宗介、大澤真幸両氏の力を借りることにする。
社会学者見田宗介によると、終戦からバブル崩壊までの時期は、「理想の時代〔終戦~'60年〕」、「夢の時代〔'60年~'70年代前半〕」、「虚構の時代〔'70年代半ば~'90年〕」という時代に分けられるという。
前回のEntryで見たように、理想を「いまだ現実化していない可能的現実」と捉えると、理想と現実は地続きとなる。理想主義者であることと現実主義者であることは必ずしも矛盾しない。そして実際、理想を求めることが現実を生きることであり、現実を生きることが理想を実現することだ、というように感覚された時代、これが「理想の時代」だ。
アメリカの物量の力によってねじ伏せられたという意識が、"American way of life"に対する畏敬を喚起し、急速な復興をドライブする。そしてその象徴である「三種の神器」と呼ばれた家電製品が国民的な支持を集め、普及していくといった形で、理想と現実は繋がり、重なり合っていた。が、この「理想の時代」を終わらせたのは「60年安保」だった。
大澤真幸によると、「60年安保」は「アメリカン・デモクラシー」であれ「ソビエト・コミュニズム」であれ積極的な理想を有する人間と、何の理想も持たない体制的な現実主義者との対立だった。既成事実を積み重ね、無際限に原理原則を掘り崩していった当時の首相岸信介は、彼の思想ではなくその思想の不在、理念なき官僚的手続き主義をこそ批判された。ここには、現実と理想は地続きである、という感覚が徐々に失われつつある、ということが分かる。
「夢の時代」は「理想の時代」から「虚構の時代」へと移り変わっていくその端境期にあたる。経済はさらに成長を続けたが、一方で公害問題などその陰の部分も顕在化した。この時代の末期に起きた全共闘運動は何らかの積極的な理念、思想的内実、といったものを備えておらず、寧ろそれは「あらゆる理想の否定」という形で現れた。旧左翼も戦後民主主義も、近代合理主義もまとめて否定された。ここに理想と現実の感覚上のギャップは決定的となり、時代は「虚構の時代」へと向かう。
大澤によると、「虚構」はそれが「可能的」であるということにおいては「理想」と共通点を持つのだけれども、それが現実とは無関係に成り立つ、という意味で決定的に異なっている。「虚構の時代」は「理想」の現実性が断念された後にやってくる、非現実・反現実の時代であり、情報化・記号化された擬似現実を構成しさらにそれを差異化しながら維持することに、人々が動機付けられる時代だ(具体的な理想の構想・実現が断念された後になお追い求めうるものがあるとすれば、それは現実化しないもの=「虚構」である)。
「理想論を語るな(現実を見ろ)」という言葉が、「現実におもねるな」という言葉に比べて現在圧倒的に力を持つようになっているのは、おそらく戦後の日本がこのように時代を経てきて、そこで言われている「理想」がほとんど「虚構」と同義の概念として捉えられているからではないだろうか。それは現実とは無関係のフィクションという意味で、オタクが耽溺する各種サブカルチャーと等価なものとして扱われる。だから、例えばそんなものをマジに政治に持ち込もうとする人間(サヨク?)は煙たがられ、ツッコミを入れられる。理想は虚構に過ぎない、現実と虚構を混同するな、というわけだ。
しかしここでもう少し注意深く考えたい。政治に虚構を持ち込むな、と言ったところで、そもそも虚構の時代にあっては、政治すらも虚構であったはずだ。政治改革ブーム、新党ブームはほとんどギャグマンガのようだったし、地方選挙の投票率の低さをみれば、政治だけは現実と関わっているという感覚が共有されていたとはとても思えない。自分たちの身近な、まさに「現実」を左右することにすら、ほとんど関心など持たれていないのだ。
だから「理想へのツッコミ」を介して行われる政治的言論も、そのほとんどは「上滑り」を余儀なくされている。例えば、在日朝鮮人批判にしても実害を被った経験のある者などほとんど居ないのだろうし、そこで語られる「国が乗っ取られる」という議論もほとんど根拠のない陰謀論だ。イラク問題における「国益」の議論も、自らとの繋がりや具体的なイメージをもって語った人などほとんど居ない。為されたのは岡崎久彦の口真似のような、実証的でない怪しげな話ばかりだった。また、安倍晋三に対する次期首相待望論もそうだ。というのも彼は、北朝鮮への強硬論以外に取り立てて見るべきところのない人物だからだ。やはり誰も彼が首相になった時の、社会の具体的イメージを描いた上で、推している訳ではない。
つまり「現実」を語る力は少しも増していない。そうではなくて「理想」を語る力の長期低落傾向に歯止めがかかっていないだけなのだ。「理想」を語る側にいくら「それは虚構だ」とツッコミを入れても、それがすなわち現実を語るということには全くならないし、実際になっていない。低落傾向にあるものを嗤い、さらに叩いたところで、「現実」には届いていない。「理想=虚構」を裏返したところでそれも「虚構」に過ぎないのだ(「朝日新聞」ではなく、「産経新聞」や「諸君」、「正論」を読めば「本当のもの」に近づけるわけではない)。
従って虚構と現実を混同するな、というツッコミが仮に的確に為されたとしても、その「混同すべきでない」というある種の「正しさ」さえも、ツッコミの対象になりうる、というのが「理想」、「正しさ」を断念した虚構の時代の倫理だった。それが失われ、ツッコミの作法の形式だけが残存し、「虚構が反転すれば現実・真実だ」というナイーブな感性が大半を占め始める時、虚構の時代は終わり、「ポスト虚構の時代」に入ることになるのだろう。それが大澤真幸の言う「不可能性の時代」なのかどうかはまだよく分からないけれども。
段々収拾がつかなくなってきたので、最後に蛇足を述べて終わりにしたい。「虚構」を叩くことで立ち現われ(るかのように見え)、欲望される「現実」は、さらに一層根深い「虚構」であるように思われる。
例えば、2月13日のサンデープロジェクトで、北朝鮮への経済制裁を議論した議員の中で、賛成派の議員はその効果について、「これで拉致問題は解決するわけではないが、北朝鮮経済にダメージを与えることは出来る」と説明した(「効果がある」とは「北朝鮮へダメージを与えられる」という意味であって、「拉致問題が解決できる」という意味ではない)。けれども拉致問題解決と北朝鮮のダメージがイコールで結べないなら、それは制裁をすることの自己目的化と呼ばれても仕方あるまい。つまりそこには具体的な解決へのビジョンが何ら想定されていない。「話し合いによる解決」が「理想=虚構」ならば、「経済制裁論」も同様に「虚構」に過ぎないというわけだ。
また問題解決より寧ろ、これまでの両者の関係や経緯、その他何もかもが破壊されることそのもの、「終末」こそ目的であるという意味では、そこにある種の「ハルマゲドン」への欲望があるとさえ言いうるだろう。自民党のプロジェクトチームは、いま経済制裁のシミュレーションを行っているという。それは問題解決の道筋のシミュレーションではなく、どうすれば北朝鮮にどれだけのダメージを与えられるかという、「終末」へのシミュレーションだ。オウムの信者たちが、ハルマゲドン(というフィクション)までの道のりを生き生きと(リアルに!)想像したように。

