突然なのだけれども「愛国心」について、永井均「<私>のメタフィジックス」所収「感覚の文法」を横目で眺めながら議論してみたい。
ウィトゲンシュタインの議論で有名なものの一つに「痛み」にまつわるものがある。永井はこれを「感じられるもの一般」の議論と捉えなおした上で、さらにそこに「感情」と「感覚」の区別を導入する。「痛み」は「感覚」に含まれ、今回のテーマである「愛国」は「感情」にとりあえず分類されるだろう(これについては後述)。ちなみに「感覚の文法」では「感覚」の分析が中心的話題なのだが、当Entryでは省略し、永井流の「感情」の分析を通じて「愛国」を考えてみるに留める。
「感じられるもの一般」については(1)それを感じるべき「脈絡」(2)感じられているものの「実質」(3)感じている状態の表れ=「表出」の要素が重要になる。例えば<不当な逮捕(脈絡)に、興奮して気が荒立てられ(実質)、大声でわめき散らす(表出)>ことが「怒る」ということだ。
このうち、「感情」においては「実質」はもちろんだが「脈絡」も重要な位置を占める。「怒ったような振る舞い(=表出)は無いが怒っている」という状態は容易に想像しうるが、「怒ったような気分(=実質)」も無いのに怒っているとは言えない(それは「怒っているふり」に過ぎない)し、「怒るべき状況(=脈絡)」も無いのにいきなりむらむらと怒ったような気分が湧き、怒り出す場合、それは寧ろ「怒り」ではなく「気が違った」、「精神が錯乱した」と言われるだろう。「怒り」には「実質」だけではなく、それが正当化されるべき「脈絡」が不可欠だ。その意味では感情は私秘的なものではなく、外界に開かれている、と言ってよい(この点「感覚」には「脈絡」が必ずしも必要とされない、という点で大きく異なる)。
「感情」の代表的なものはいわゆる「喜怒哀楽」だが、中にはこれら単純な感情に比べてより「高次の感情」と言うべきものがある。「羞恥」、「虚栄」、「嫉妬」といったものがそれだ。問題はこれらにおいてはその「実質」が特定し難い、ということにある。「嫉妬」は状況によっては「怒ったような気分」も「哀しいような気分」も引き起こしうる。つまり、「嫉妬」は「実質」においては「怒り」や「悲しみ」などの単純な感情と水準が同化してしまい(還元可能であって)、それ固有の「実質」が存在しない。これら高次の感情においては「脈絡」と「実質」の結びつきは偶然的なものに過ぎない。
寧ろ「嫉妬」の成立に必要なのは「脈絡」と「表出」であって、「嫉妬すべき状況」と「嫉妬しているような振る舞い」さえあれば「嫉妬している」と言いうるだろう。つまり直接私秘的に認知出来る「実質」が存在しない以上、「誰が何と言おうと私は嫉妬していない」と言い張る権利が最終的に「本人にない」ということになる*1。
問題は「愛国心」だ。さて、愛国心は単純な感情だろうか、それとも高次の感情だろうか。とりあえずは後者なのだろう。「愛国心」には「嫉妬」同様、固有の「実質」が存在しないからだ(「愛国心」とはムラムラとした気分だろうか、イライラした気分だろうか、それともウキウキと何か高揚するような気分だろうか)。「愛国」に必要なのは「脈絡」と「表出」のみだ。従って「誰が何と言おうと私は国を愛している」という最終的権利は、やはり本人には帰属しない。
さらに話を進める。「愛国心」の中核要素が「脈絡」と「表出」にあることは分かった。ならば一体ここで言う「脈絡」とはどのようなものだろうか。「表出」とはいかなるものだろうか。<サッカーW杯予選が行われている埼玉スタジアムで、日の丸を振る>ことが「愛国」だろうか?(「それは単なるお祭であって愛国心とは何の関係もない」という論者もいる)。<自国が戦争の最中、停戦・反戦を唱える>ことは「愛国」の発露と言いうるだろうか?敗戦後、西洋的モダニズム・個人主義を導入せんとした進歩派知識人は、日本の魂を売り渡した売国奴だったろうか?
確かに「愛国心」を主張する最終的権限は本人には無い、としか言いようが無い。だが問題はその「脈絡」も「表出」も、「嫉妬」と異なり、全く社会的コンセンサスが無いが故に、本人どころか「誰にもそれを主張出来る権限がない」というのが、この「愛国心」の問題の特徴なのだ(逆に「誰にも権限が無い故に」にそれを独占的に僭称し、押し付けようとする人間が現れやすいのも、この問題の特徴だ)。
「あなたには愛国心があるか」と問われても、僕たちは通常それを直接私秘的に知ることは出来ない。どのような振る舞いが愛国的と言いうるのかも判然としない。どのような状況でその振る舞いをすべきかも分からない。ここまで来ると、「実質」がないどころか「脈絡」も「表出」すら特定し難いものを、普通の意味での「感情」と呼ぶべきなのかどうかさえ怪しくなってくる。おそらく「愛国心なるものは幻想に過ぎない」と主張する人たちが、いつまで経ってもいなくならないのは、この辺りに原因があるのではないだろうか。
甚だ不十分ではあるけれども、暫定的な結論をまとめよう。「愛国心は自然に個々人に湧きあがってくる感情だ」という言い方は正しくない。「愛国心」の帰属を主張する権限は「個々人」=当人にはない。とは言え誰かに権限があるわけでも、コンセンサスがあるわけでもない。従ってそれは普通の意味で「感情」のうちには「現時点においては」分類されえず、その存在自体が未だに認識論的論争を呼んでいる、曖昧な概念に過ぎない。
ちなみにその論争に決着がつくとは個人的には思えない。
*1テレビドラマなどで他人から「それはきっとやきもちだよ」と指摘されて主人公がハッとするといった場面はよくあるが、それを視聴者も作り手も不自然に思わないのも、このことを証拠立てている。

