「日本とドイツが似たようなことをやったというが、ドイツはユダヤ民族を抹殺するという大犯罪行為」…(中略)…「人数や性格の差を議論してもしょうがない部分があるが、彼らは(ナチスを)ドイツ人とは別の種類の人たちだったといわんばかりに全部ナチスのせいにすることができた。そういう分類は日本ではなかなかできない」これは西尾幹二の主張を鵜呑みにしたものと思われる。西尾幹二は、ドイツ国民とナチスの「切り離し」に関して「(ドイツ国民全体の責任を否定するもので)無責任」、「卑怯」といった文脈で語るが、それはドイツが戦後いかに「過去の克服」という課題に取り組んできたか、というそのプロセスを矮小化し、その一部については(意図的に?)無視しているものである、という指摘がある。
清水正義氏(ドイツ現代史)「異ならない悲劇 日本とドイツ ―西尾幹二氏の所論に寄せて―」
また「過去との切り離し、決別」という態度に対する、「無責任」、「自民族を正当化せんが為のレトリック」といった批判が、いかにも底の浅い代物であることは、以前も紹介させていただいたfenestraeさんやjounoさんのEntryを読んでもらえば分かるだろう。
fenestrae「連続と切断、内なる歴史をどうするか。」
しかしまたわれわれには、現代につながる近過去を、新しく獲得した現代の価値基準で見、そこからショックを受け、受け入れられないものとしてはねつける権利も義務もあると私は信じる…(中略)…私は競争で人を殺すことを是認し、それを英雄的とすら称える世界には生きていないこと、自らの軍隊が捕虜や市民を殺害するこを仕方のないことだと思ったりそれに対する批判が許されない世界には生きていないことを幸運に思い、その価値を守りたいと思う。…(中略)…その体制は子供であった私の父もいた体制であり、私の祖父母が担った体制である。私は彼らの経験や彼らの証言と引き比べることで、戦争のもたらした結末によって体制に多少なりとも断絶がもたらされ、新しい価値観を選択した体制の中で生きていることをよかったと思うと同時に、その断絶が必ずしも十全ではないこと、新しい価値観の選択は常に更新されなければならないと思う。note of vermilion「歴史と謝罪」
戦争の主体として大日本帝国を、現在の日本国家のアイデンティティから批判的に他者として切り離し、その連続性を断つということが問われているのだろう。これは一つの倫理に他ならない、と僕には思われる。


Comment (5)
西尾氏の『全体主義の呪い』はまさにドイツ人の罪と罰についての話が出てきますね。
ドイツでは全体主義の罪を「個人の罪」に還元したという評価はそれなりに的を得ていると思います。
西尾氏いわく
>>
「なるほどドイツ国民に共同の政治責任はある。しかし私個人には罪はない。」が、私のみるところ、大概のドイツ人の割り切り方である。
ナチ国家にいたるドイツの歴史をさながら他人の歴史を裁くかのごとき冷淡さで、自分の外に置き、自分個人に罪はないとするこの習慣は早くから確立されていた。(P152)
こういうメンタリティがあればこそ、ゴールドハーゲン論争(ドイツ戦争責任論争)が巻き起こるのでしょう。ゴールドハーゲンはナチ党員のみならず一般ドイツ人の多くが反ユダヤ感情から自ら殺害に手を貸していたといって物議をかもした。これが過ぎ去ろうとしない過去に終止符を打とうとするひとたちをたきつけてしまった。西ドイツは東ドイツ(全体主義=共産主義)を容易に悪魔化することができたわけですから、統一後には水面下に沈んでいた問題が浮上するのは必至だったといえるでしょうね。
西尾氏のその本だけの印象をいえば、批判手法が空振りしているという印象。戦後ドイツの歴史政策(憲法を含む)は、法的枠組みまで深く浸透した制度でもあるので、単純に刑事上の法的責任論を探求する手法ではドイツの政策を批判することはできないということです。
これは東京裁判の政治性を批判する視角についてもいえるのですが、法技術的に裁けるのか云々するひとたちには、残念ながら法は戦争を克服するには至っていない、汚れながら政治的に処理するほかないのだと言わざるを得ないと私自身は思っています。
Commented by: swan_slab | 2005年04月15日 10:05
日時: 2005年04月15日 10:05
スワンさん。コメントありがとうございます(レスが遅れまして失礼しました)。
西尾氏は暗に社会学で言う「切断操作」を「当時のドイツ人」は行ったのだ、と主張したいのでしょう。僕もそういう部分もあったであろうことは否定しようとは思いません。
しかし柄谷行人も述べているように(by「倫理21」)、まず第一に「誰にでも責任はあるのだ」という言説は、ラディカルに響く場合もあるのですが、殆んどの場合、責任の相対化(「五十歩百歩だ」)→自己肯定に使われます。実際、西尾氏は別の場所で「あの戦争は誰にも責任はない」と述べたことがあります。逆に言うとこれほど無責任なロジックはない。
第二に、責任問題に関しては「五十歩百歩」の「五十歩の差異」をきちんと問うことが重要で、その意味では、ドイツが分かりやすく刑事責任を「まず」問うたのは妥当だ、と僕は考えます。その上で次の段階として「五十歩とゼロ歩」の差異、「ゼロ歩とマイナス五十歩」の差異を問うという長い道のりがあるわけです(ヤスパースの、政治的・道徳的・形而上的責任はここに対応するのではないでしょうか)。もちろんドイツはまだその途上にあるのでしょう。
ところが日本では「ドイツ人は切断操作をしており、無責任だ」と批判する人間ほど、「仕方がなかったのだ」的議論を繰り返し(無責任!)、挙句の果てには「A級戦犯も日本のために死んだから戦没者と何ら変わらない英霊だ」とか、彼らによってロジスティックスも機能していない前線に無理矢理連れていかれ、死んだ(多くは餓死)戦没者が生きていれば怒り狂うであろうことを、平気で主張しているわけです。
西尾・町村両氏にドイツを揶揄する資格は無いと思いますね。
Commented by: deadletter | 2005年04月20日 10:06
日時: 2005年04月20日 10:06
>責任の相対化(「五十歩百歩だ」)→自己肯定
まさにおっしゃるとおりで、西尾氏はその著書のなかでも集団の罪VS個人の罪という問題の立て方をして「個人の責任を問えるのか」などと提起しています。
「ドイツ戦争責任論争」W・ヴィッパーマン(未来社)を読むと、このような問いの立て方自体が批判されなければならないと述べています。
ただ、難しいのは、例えば「ナチスの犯罪は唯一無比の、比較不可能な犯罪」という問題の立て方は、じゃあ、何の問題もないのかということです。比較禁止のテーゼは、比較すれば相対化され「ヒトラーよりスターリンが悪い、ナチ時代にはアウトバーンが敷かれ、いいところがあった、なんだそんなに悪くなかったじゃん」ということになる危惧から生まれるわけですが、これには功罪があるように思うのです。まず、切断操作を行いやすい。現在でも、T4計画や断種法などの傷が真剣に省みられているとはいえない状況にあるようです。これは法制度的に調べてゆくと、フィヒテの思想、さらにはゲルマン法思想(有機体的な団体思想)にまでさかのぼってしまうので、奥が深いです。
私自身は「近代がホロコーストを用意した」という「啓蒙の弁証法」的な見方あるいはマルクス主義的な見方が完全に失効していいかは熟慮すべき点だと思うのです。つまりW・ヴィッパーマンの見解には全面的には賛成できない。これについては長くなるのでおいおい自分のところに書きます。
>もちろんドイツはまだその途上にあるのでしょう。
ドイツは確かに自らの手で汚れながら刑事裁判をし続けてきました。法哲学の竹下賢氏の労作『実証主義の功罪』ナカニシヤ出版1996 では戦後ドイツの刑事手続について、再生自然法がどのように導入されたのかの観点から一章を割いて論じています。これを読むと、まさにドイツの戦後処理は「二つの悪のうち一つを選ぶことである」A・ハート談 というものであったことがわかります。ナチス時代の邪悪な自然法は法実証主義によって支えられていた。これに対して、戦後の正しい自然法が罪刑法定主義・事後法処罰の禁止などを敢えて無視して無理やりに裁いた。法実証主義の糾弾というよりは、実体的正義による邪悪な思想(”偽り”の自然法)の抹殺だった。しかし、実体的正義による糾弾・抹殺という手法はナチスの手法と同一のものである。こうした裁判の悩みや煩悶が戦後ドイツの政策を法制度の側面から決定付けた一面があるのではないかと推測しています。
NHK朝日騒動の頃、「戦時性暴力を裁く」「法廷」がついでに糾弾されていましたね。「番組以前にそもそもあの法廷自体がナンセンスじゃねぇか」と。しかし、粟屋憲太郎氏の東京裁判に関する研究の一部をのぞいたり、上記のようなドイツの事例を参考にすると、戦争や稀有の国家的犯罪から政治的・法的秩序を回復する、あるいは新しい法秩序を建設するという作業は、きれいごとではダメで、血塗られた作業にならざるを得ない(ある意味で革命に近い)ことがつくづく読み取れます。
手続的正当性は圧倒的不正義を裁き国際法秩序を回復するために犠牲にせざるを得なかったという政治ベースの文脈を読み取らなければ戦後処理の功罪は議論できません。
そう考えれば、「あんなの法廷じゃない、政治的プロパガンダだ」という批判のたち位置はそもそも妥当かどうか。その批判の論理でいけば1945年にさかのぼってすべてが失効になりかねない。勝組が戦後秩序を作るということを否定できない。
かつての戦後処理の実態を踏まえずに、いまだに「行為の当時、合法だった」だの「日本は国際法を遵守していた」だのと法ベースで議論したがる人たちがいる。勘弁してくれと私は思うのですが、今年はちょっと話題にしていかなければいけないなと思っています。
>西尾・町村両氏にドイツを揶揄する資格は無いと
西尾氏はドイツのゆがみを凝視した結果、視野が狭くなったのかもしれません。
Commented by: swan_slab | 2005年04月20日 22:08
日時: 2005年04月20日 22:08
非常に勉強になるコメントを頂き、感謝です。ヴィッパーマン等、挙げて頂いた参考文献は、後学の為読ませて頂きます。また、スワンさんのEntryも楽しみにしております。
Commented by: deadletter | 2005年04月21日 10:08
日時: 2005年04月21日 10:08
どうも、自分勝手な着想を書き付けたようなレスをつけてすいませんでした。いずれにしてもドイツの過去への反省のあり方は、光と影の部分をちゃんと押さえたいと思っています。日本の法制と深く関わりがある国ですし。
Commented by: swan_slab | 2005年04月21日 22:09
日時: 2005年04月21日 22:09