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2007年02月28日

「我々」と「彼ら」のポリティクス

Thinking
香山さんは指摘する。「安倍さんは著書『美しい国へ』のなかで、『わたしたち』と『かれら』という言葉を多用している。『わたしたち』は家族を愛し、国を愛し、公共心があり、にこやかで美しい。『かれら』は利己的で姑息(こそく)で悪意に満ちたイメージです。ものすごく違うのに、『わたしたち』や『かれら』のはっきりした定義は書かれていない。2者の線引きはあいまいで情緒的です。まるで漫画のような2項対立でしか世界をとらえていない」(2006.9.13 毎日新聞

前回述べた「アンチノミー」についてもう一度おさらいしておく。安倍は国民の支持を取り付けなければ、政権が持たないことを知っている。国民から人気がある(少なくとも他人からそう思われている)ことこそが自らの権力源泉であることを知っている。そうでなければ、自分が現在の地位にいなかったであろうことも痛いほど自覚している。

一方で彼の認識のレベルでは、国民=「かれら」に対する懐疑はあくまでも根深い。「かれら」は怠惰で、規律・道徳心に欠け、権利を振りかざして国家を困らせるだけの存在である。しかもその存在は無視できるほど小さいものではない。戦後民主主義によって肥大化してしまったその存在は、それから目覚めた人々=「わたしたち」が、主導して再生させなければならない。でなければ、この国は自壊するか対外勢力によって滅ぼされてしまうだろう。

しかし問題は、安倍がこの国で肥大化した大勢力を制約(抑圧)する政策行いながら、同時に国民的に広い支持を取り付けるということは、まさにアンチノミーではないか、ということだった。

だとすれば「わたしたち」と「かれら」の境界線が曖昧で、恣意的であるというのは当然である。それは単なる抽象的イメージでなければならない。「何か曖昧だが不快なものの総体」が「かれら」なのである。

そこには様々なものが代入可能である。「楽して働かずに社会に寄生するホームレス・ニート」、「大人の足元を見透かし好き放題に暴れまわる青少年」、「生活保護にたかる在日」「日本人が苦労して培ってきた経済力にタダ乗りしようと不法滞在しあまつさえ犯罪まで犯す外国人」、「独身の自由を謳歌し子育ての責任を負おうとしない女性」、そして「そんな『かれら』を甘やかして利権(?)を貪ろうとする人権団体」…

実際にそのような人たちが存在するのか、実態はどのようになっているのかはとりあえず脇に置かれ、恣意的なイメージだけが一方的に語られ、「かれら」として攻撃対象にされる。「かれら」が排除の対象であるだけで、「あなた」は「かれら」ではないから安心して叩いて良いというメタメッセージを伴いながら、排除は正当化されていく。よくよく考えてみれば「あなた」が「かれら」に代入されない根拠などもちろん何もない。「かれら」は一度とて定義されたことは無く、めいめいが勝手に想像し、代入しているイメージでしかないのだから。『わたしは「かれら」とは違う!』なるほどそうだろう。そもそも一人一人全く同じ人間などいはしない。だが、安倍の頭の中では同じかもしれない(もちろん「幸運にも!」違うかもしれない)。例えば安倍の頭の中では、ホワイトカラーとは家庭の責任も果たさず残業代欲しさに会社にダラダラと居残る、れっきとした「かれら」なのだろう。

曖昧なイメージで、思い思いの「かれら」=敵を想定させることによって、安倍は「アンチノミー」を克服しようとしている(それが自覚的なものかどうかは分からないが)。安倍の言う「醜いかれら」は自分とは全く異質で・彼岸に存在するものであるなどと束の間思い込ませることに成功すれば、締め上げられる対象でしかない国民の支持を取り付けることも可能になるだろう。

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