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2005年06月14日

「強者」の責任

Thinking

尼崎の列車脱線事故で、被害があったマンションの住人たちとJR西日本の間で損害の補償の交渉がもめているようだ。

僕はどちらの言い分が妥当かとかそういうことにはあまり興味がない。ただ、この種の社会的パニックを引き起こしたような事件で「場の空気」による解決が為されなければ良いな、ということは思っている。

新聞その他のニュースによるとJR西日本が提示しているもので目を引くのは「マンション住民全世帯に対する購入価額による買い上げ」だ。物損事故についてはそれまで使用し続けた分の価値を差し引いて「時価」で補償額を算出するというのが普通だという。

なぜJR西日本はより踏み込んだ提案をしたのだろうか。まず考えられるのには今回の事故が非常に大きな社会的非難を引き起こすような事件だったことがある。通常より多めに補償をすることで「誠意」を示し、それを落ち着かせたかったということがあるのではないだろうか。つまり「場の空気を読んだ」わけだ。また裁判にまでもつれこみ交渉が長引くことにかかる様々なコスト考えた上での提案だった、ということもありそうな話だ。従って彼らは必ずしも「法による調停」を望んでいないのだろう、とも推測できる。

僕はこの種の「場の空気を読んだ法に拠らない解決」については今のところ否定的な考えを持っている(特に日本では空気による支配が相対的に強いように思われるので)。というのはこの事件について考える度にどうしても同様の社会的パニックを起こした「浅田農産事件」を思い出してしまうからだ。

そもそもJR西日本が通常よりも手厚い補償が可能なのは彼らが大企業だからだ。「誠意を見せろ」という曖昧で、まさに「空気」を背景にした要求はエスカレートしがちだ(例えばヤクザは決して最初に具体的な金額を示さず、相手から提示された案に「お前の誠意はその程度か」と文句をつけることで補償額をつり上げる)。そしてそのエスカレートした要求に応えることが出来るのは大企業に象徴されるような「強者」だけだ。

一介の中小企業(=「弱者」)に過ぎなかった浅田農産の会長夫妻は社会的パニックを背景にした責任追及、「誠意」の要求を収拾する為に命を差し出すしかなかった(彼らにより踏み込んだ提案をする余裕など無かった)。ちなみに「鳥インフルエンザ騒動」は一人の死者も出していない。けれども浅田農産の会長は死に、JRWの社長は「辞職」というペナルティを負うのみだ。脱線事故の被害の大きさを考えれば、そこに何とも不条理というか、不公平さを見てとってしまうのは僕だけだろうか。つまり法や制度に拠らない解決・責任追及はしばしば弱者にとって過酷なものでありうるのだ。

浅田農産がすぐに法や制度を喚び出せたなら結末は変わっていたかもしれない。法や制度は、予測困難なリスク、或いはそれによるダメージを最小限に留める装置でもある。現代のような複雑化した社会はちょっとした過失が思いもよらない帰結をもたらす社会だ。そして過失を犯してしまうリスクとその影響の大きさは必ずしも強者と弱者で異なるわけではない。だからこそ、責任追及の予測可能性に資するものとしての、リスクヘッジとしての法・制度の重要性はより高まっていると僕は思う。

今回の脱線事故の補償交渉のケースでマンション住人が何を要求してくるかはどうでもいいことだ。仮に少し上乗せして住人の要求をそのまま呑むことだって「強者」であるJRWには不可能ではないだろうからだ。問題はそういう「空気を読みあいながらの交渉」が、今後同様の社会的パニックを起こした事件に再び繰り返されるかもしれないことの是非ではないだろうか。

個人的にはこういう社会的な大事件だからこそ、事件の被害補償、責任追及に関してはきちんとした形で法や制度に反映・蓄積させてもらいたいと思う。JR西日本は場合によっては裁判をし、それを判例に残すべきだ。奇妙な言い方かもしれないのだけれども、それは「強者」としての一つの責任の取り方でもあるのではないだろうか。

(追記)
念の為言っておくと僕は被害者であるマンションの住人の方々の「要求」については何の批判的な気持ちも持ってはいません。被害当事者の様々で複雑な感情を想像するに、「通常よりも多め」の補償額を彼らが要求することは寧ろ当然ありうることだと思っています。その種の「感情」を否定的にのみ評価し、「分を弁えろ」みたいなことをすぐ言ってしまう人は人間を過度に理性主義的に捉え過ぎているのではないでしょうか。

僕が言いたいのは、社会的な影響が大きい事件において、第三者で冷静に問題を考えられるべき人たちまでもが当事者の代弁者を騙り、その種の感情を後押し・増幅させてしまった時にしばしば過剰な責任追及が行われてしまうことへの、そしてそういう「空気」とでも言うべき不安定で不透明なものについてはリスクマネージメントが行いにくいことへの危惧です。

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Comment (2)

こんにちは。
損害賠償の範囲というのは、事故の規模や被害者の数が大きくなればなるほど、個別の実損害を認定することが困難になりますし、個別損害の填補を実現しながらなお公平感を保つのはほとんど至難の業だと思います。

ですから、被害者に対しては一律補償という形で事故そのものを類型化することがやっぱり望ましい裁定方法なのかもしれません。

そうやって当事者以外の市民に対して予測可能性を与えることで、人々は合理的な計算に基づくリスクヘッジをできるようになるからです。

その意味では、この事件ではマスコミが大きく騒いだからなぁという主観的な被害感が和解の当事者の判断に混じればその後の事件における公平さを損なうことになるでしょうね。

deadletter:

スワンさん。コメントありがとうございます。

社会的影響の大きい事件ではとかく「空気」といったものが醸成されやすく、当事者は「世間が納得するかどうか」といった極めて曖昧な観点から責任問題を考えてしまいがちです。またその「空気」は当事者も、場合によっては第三者でさえも制御しにくい、つまり暴走しやすいことがままあるように思います。

暴走しがちな空気に解決が委ねられる習慣をこれ以上定着させない為に「法・制度」への信頼を高めていく、というのも一つの手なのではないかと。

現状では残念ながら人身事故や社会的パニックの起きた事件では「法(或いは制度)は当事者(特に被害者)のことを本気になって考えてくれていない」というようなことが語られることが割合多くて(法への信頼が低い)、自分で書いてて「机上の空論」感は否めないんですが。

司法側の更なる努力ももちろん求めたいところですが、卑近な例で言えば、話し合いの場に弁護士を同席させるととたんに「空気」が悪くなる、みたいな風潮もちょっと行き過ぎなのかな、と。

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