宮台真司『まぼろしの郊外』に確か、「成熟社会の差別論」という、差別をテーマにした文章が収められていた(ちなみに僕は宮台さんの真面目な読者とは到底言えなくて、『権力の予期理論』とこの『まぼろしの郊外』以外はちゃんと最後まで読んだと胸を張って言えるものは無いです)。とても面白かったので紹介したいんだけど、本が手許に今無いので、記憶を頼りに再構成してみる(もし持っている方で、僕の要約に異論があるという方は、ぜひご指摘頂戴したく)。
社会学的に言えば「差別」というのは、「わいせつ」と類似の概念で社会的文脈の関数なのだという。例えば「わいせつ」とは、「非性的であるべき文脈」で性的(行為を含む)露出がなされる時に喚起される否定的感情であって、性的行為そのものがすなわち「わいせつ」なのではない。
同様に「差別」の場合でも、単に「AとBは異なる」というようにカテゴライズする、差異を認識する行為=区別が、すなわち「差別」となるわけではない。ひとは、世界を様々にカテゴライズし、そのカテゴリー毎に予期を持ち、そして反応している。けれどもそこに、「AもBも同じ~ではないか」という上位カテゴリー、包括的カテゴリーでの括りが為される、或いはまた包括的カテゴリーに基づいて予期が持たれ、行為されるべきだ、という告発(社会的文脈)があると「差別」が成立する。
差異を包括的カテゴリーで括り告発すれば、あらゆる区別は差別となりうる。だから合理的区別と「差別」の線引きは常に非実体的根拠で、暫定的に為されるしかない。それまでは「差別」とされていなかったとしても、「同じものとして扱われるべき」という告発が共有されれば、区別=「差別」なのだ。またこれらのことから、「差別」は「原理的には」なくならないことが帰結する。
「(男)と(女)は違う」「〈男〉も〈女)も同じ〈日本人〉ではないか」。「それでは(日本人)と〈国籍を持たない非日本人〉なら区別してよいか」、「いや同じ〈日本に住む人間)じゃないか」、「(非居住者)ならどうか」、「いや同じ〈東洋人〉ではないか」等々。カテゴライズは常に「差別」に転化しうる。
ところで、宮台さんの差別論が興味深いのは、以上の原理的な議論ではなく、寧ろその先だ。カテゴリーの中には「中立的カテゴリー」とそうでない「アイデンティティを構成してしまうようなカテゴリー」がある。確か、宮台さんは「てんかん」の例を出していたはずだけど、「てんかん」というカテゴリーをアイデンティティのよりどころにする人はいない。だから、(てんかんを持病に持つ人)/〈そうでない人〉で、日常生活を送る能力においてなんら違いが無いことが証明されれば、異なった役割期待・扱いは「差別」である、と告発できる。
このように容易に相対化できる「中立的カテゴリー」と違って、相対化出来ないカテゴリーが存在する。例えば分かりやすい例で言うと(女)とか(在日外国人)とか(黒人)とかいったものがそれだ。それは、アイデンティティを構成してしまうことがありうる故に、それらは相対化され、包括的カテゴリーに同化・吸収されることを拒むケースが生じる。被差別者(被差別感を持つ人)に見られる「同じなんだけど、同じじゃない」というまさに「微妙な」感受性はここに由来する。また「差別」と闘う共同体の歴史そのものが、構成員のアイデンティティを構成してしまうことがありうる。従って彼らへの「差別」は存在し続けても、または霧散しても問題が生じる。
このカテゴリーとアイデンティティと差別の問題は、成熟化社会ではより一般化しうる、また現実にそうなりつつある(僕が思うに、例えば「オタク」とかにも多分当てはまりうるのでは?)ので、各「カテゴリー」間・各共同体の間をどう取り結ぶのか、それらが一つの社会でいかに共生しうるかという「最適化戦略」こそが、差別論において論じられなければならない。
というわけで宮台さんはいまや誰もが「差別」を論じるべきだ、と締めくくる。「在日/日本人」は合理的区別か否か、北朝鮮を批判すればそれは差別か否か、といったことは僕には非常に眠たい議論なわけですが、まあこういう差別論もあるということで、ひとつ。

