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2005年08月13日

「代表」について

Thinking

前回のEntryでは「郵政民営化問題以外は白紙委任で」とでも言いたげな解散権者とその取り巻きたちを批判したわけだけれども、ここで少し立ち止まって考えたい。

そもそも間接民主制の下での議員は本質的に「白紙委任」されているものなのではないだろうか?憲法51条は有権者から議員に対する「自由委任の原則」を定めている。極論すれば選ばれた議員は、選挙期間中に為した選挙公約をその後翻そうとも、まさに「そんなことはたいしたことじゃない」というわけだ。となると疑問が湧く。仮に何も委任されていないのなら、なぜ議員は国民を「代表する」などということが言われるのだろうか?

ちなみに「代表」は、法人と機関(例えば経営陣)が典型なのだけれども、Aの行為についてBが行ったと同じ法律効果をBに生じさせる、そういう関係のことだ。つまり国会議員が行ったことは国民が為したこととみなす、と言えれば議員は国民を「代表」している、と言える。

まずこれにYesとする考え方(その帰結としては間接民主制がある)をみてみる。この考え方の前提の一つには国民の意思なるものが非常に抽象的である、ということがある。

例えば、国会議員は選挙区の有権者に対する奉仕者ではなく、国民全体に対する奉仕者だ、とよく言われる。さらに言えば「個々」の国民の意思が問題なのではなく、「全体」としての国民の意思が問題だ、というわけだ。でも一体「個々」ではない「全体」ってどういうものなんだろうか。少なくとも具体的な存在、指示対象ではないことは確かだ。とすると、これは「法人-機関」関係とよく似てくる。具体的存在ではないものは、それがこの世界に現象するために機関(=器官)を必要とする。つまり「国民(全体)の意思」なるものは、それが現象する為に国会議員がいなければならない、というわけだ。もう少し強調して言うと、議員が存在して(具体的に行為したり、意思を表明したりして)初めてその背後に「国民の意思」なるものが想定される、ということになる。

これはかなり驚くべき考え方ではないだろうか。個々の有権者が何を考えていようと一旦議員が選出されれば、彼が意思したことが(それがどのようなものであれ)すなわち国民の意思なのだ、というのなら、事実上代表者は国民の意思なるものを恣意的に解釈せざるを得ないし、つきつめればそうすべきだ、ということになりかねないからだ。ケルゼンは述べている。

これ(議会主義)はすなわち議会のみが国民の代表者であり、国民はその意思を議会においてのみ、また議会によってのみ発表することができるという思想である。しかも事実はこれに反し、議会主義原理はあらゆる憲法において例外なく、議員はその選挙人から何ら拘束的な指令を受け取るべきではなく、従って、議会はその機能において国民から法律上独立しているものである、という規定と結合しているのである。まさにこの議会の国民に対する独立宣言をもって一般にはじめて近代議会が成立するもので、議員が命令的委任(選挙人団の指図)に周知のように拘束され、これに責任を負っていた昔の身分的代表集会と明らかに切り離される。
代議制とは虚構性の極めて高い政治的イデオロギーを受け入れた者たちの間でのみ成り立つ、特殊なシステムなのだ。

これに対し、「議員-国民」の関係について、命令委任の重視もしくは「人民を代表できるのは人民だけだ」という立場をとれば直接民主制が帰結することになるだろう。こちらも歯切れのいい考え方なのだけれども、ただし突き詰めすぎると、現行の憲法51条どころか間接民主制の存立すら危うくなるという難点がある(憲法の方を改正してしまえばいい、と言えばそれまでなのだけれども)。またこれは身分制議会の復活になるのではないか、という主張も否定しがたい。

というか、この立場をとり尚且つ身分制議会の復活をも退けるためには、前提として「国民の成熟」の想定が不可欠ではある。私的な利害を括弧に入れた選択ができる、デマゴギーに振り回されないまともな知性を備えているという2つの「公共性」が、身分的に平等な社会と直接民主主義を両立させる条件となるだろう。もちろんこれらが代議制で必要ないわけではないけれど、直接民主制はまさにその成熟度がダイレクトに出てしまうという点に特徴がある。

さて遠回りに遠回りを重ねてきたのだけれども、これらを踏まえて、もう一度今回の選挙を考察してみる。この選挙は、自由委任の原則を備えた典型的な間接民主制度の下で行われる。そしてこのシステムの下では、究極的には議員は何であれ彼らの意思を国民の意思として解釈することが可能なのである。だとすれば、シングルイシューで議員を選ぶということは、間接民主制を容易に堕落させる危険性がある行為だ、ということになる。

というのは命令委任が否定されている間接民主制選挙の下で、統治権力をチェックしようとする国民に可能なのは、せいぜい高い能力と高潔な人格を備えたエリートを選出することぐらいだからだ。一体、郵政民営化に賛成することがなぜ「能力の高さ」と「高潔さ」の証明になるのだろうか(例えば、一度民営化法案に反対を表明し、棄権までしておいて選挙になった途端に手のひらを返した議員が何人か居るようなのだけれども、その人間の「高潔さ」とはいかなるものなのだろうか?)。

本当に郵政問題が問われるべき争点なのか、それよりもっと重要な課題はないのか、つまりそもそも何が争点になるべきかまで遡って、きちんと吟味することなく、マスメディア・或いは解散権者たちのアジェンダセッティングを受け入れるがままでの選挙は、結局のところ、代議制の下における国民の「なけなしの」チェック機能さえもドブに捨てるようなものだ、ということは、自戒も込めてだが肝に銘じておきたい。

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Comment (6)

away:

初めまして、awayと申します。
偶然立ち寄らせて頂いてからずっと読ませて頂いておりますが、
僕自身の考えと非常に近いものを感じていました。
今回の解散総選挙において郵政はメインアジェンダであり得ない
(仮に為政者はそうしたいと思っていても)というご意見に
まったく同感です。

もし差し支えなければこちらをリンクさせて頂きたいのですが
宜しいでしょうか?
よろしくご検討をお願いします。

deadletter:

awayさん、初めまして。コメントありがとうございます。

リンクについてですが、これまでコメント以外は特に何のルールも決めていませんし、今のところ決める予定もありませんので、こんな僻地の気まぐれなBlogでよろしければ、ご自由にどうぞ。

こんにちは。
そういえば比例代表区の議員が在職中に党籍変更した場合は失職するという国会法の規定の合憲性なんて論点を思い出しました。

党議拘束に反して反対票を投じる行為も、「全国民の代表」たる議員の独立性・自律性の観点から肯定できなくもないですね。

こういう点をついてくるセンスのいいブログは貴重なので、更新頻度などお気になさらずに、ゆっくり続けていただきたいと一読者としては願っています。

deadletter:

swanさん、おはようございます。

郵政問題の経済的な分析は以前から「経済/経済学@いちごびびえす」やbewaadさん、田中秀臣先生がやってくれていますので、僕が付け加えることなど何もありません。

とすれば視点を変えて代議制の基礎からこの選挙を眺めてみればどうなるのか、というところにオリジナリティを求めるしかなく(笑)、とはいえそれも独力では能力不足ゆえままならず、「虎の巻」をフル活用した結果(笑)、こんな記事になりました。

色々ツッコミどころは多かろうとは思いますが、そこは温かい目で見てやってください。

代表民主制とは何か、議会とは何かというテーマは私も教科書的に知識として知っているに過ぎませんが、bewaadさんもプレビシットに言及されており、このあたりセンスのよさを感じます。私たちは、議会を重視するのか、指導者(独裁者)を選択するのか、選挙民の意思はどこに反映されるべきなのか。こういったことはちゃんと考える機会をもたなければだめだな、と感じています。

他方、いちごびびえすで議論されていることの1%も理解できていない私にとって、郵政民営化の是非を問う選挙だ、と言われても、改革の気分を表明する以外になく、簡単にあおられてしまいます。すっかり教養のなさを露呈させられます。やれやれ。

とまれ、予想以上に小泉演説に感銘をうけたひとが多かったらしく、ある意味、小泉さんのすごさがわかりました。

deadletter:

swanさん。

小泉氏の普段の答弁は、知能指数を疑いたくなるほど、無内容でヌルいものが多いのですが(特に与党議員が質問に立った場合)、こういう、勝負どころで、人々の琴線に触れる演説が出来る(それがきちんとした根拠に基かない妄想だとしても)、というのはやはり、只者ではない、というか、ある種の天才的な役者なのだという気がします。

彼をきちんと退けて初めて日本の民主主義も次のステップに進めるのではないかと、そんな気までする今日この頃です。

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