「裸の個人のまとう衣」の続き(本当は続けて書くつもりだったのだけれど、何だかんだで間が開いてしまった)。先日「クッキーと紅茶と」にコメントさせて頂いたんだけど、そのことと絡めて、当Blogにたびたび登場する哲学者永井均氏の、「キリスト教と原罪」についての議論を援用しながら(パクリながら)、少し考えてみたい。
キリスト教と原罪の話は頻繁に彼の著書に登場する。
誰にも借金した覚えのない者に向かってこう吹聴してまわる人物がいたらどうだろうか。「まだ気づいていないかもしれないが、お前はじつは莫大な借金をしていたのだ。でも、安心しろ。お前のその借金は、なんともう俺たちの親分が支払ってくれたのだから」。これを聞いて身に覚えのない者もつい感謝したくなるだろうか。(『これがニーチェだ』)
情欲を持って女性を見ただけで姦淫したことになる、といった言い方に代表されるように、キリスト教の道徳的要求は内面にまで食い込んだきわめて厳しいものですから、生身の人間は文字通りその要求のままに生きられるはずがありません。そこで、だれもが神の要求であるはずの道徳に背くことにならざるをえない。つまり「罪」を犯すことになるのです。罪とは神からの離反です。これは「伝統」の議論にある程度援用できるような気がする。僕達は普段伝統を自覚しない。それに沿っているかどうかも意識しない。が、ある日突然こう言われるのだ。「お前は自覚していないかもしれないがお前の生は伝統・文化に多くを負っているのだ。それなしではお前の人生は成り立たない。だが安心しろ。伝統は実際に存在し、お前の生のよすがとなっている。伝統に感謝せよ。」さて、「これを聞いて身に覚えのない者もつい感謝したくなるだろうか」?宗教としてのキリスト教の教義の中心は、神のひとり子であるイエス・キリストが人類の犯した罪を贖って死んでくれたという思想にあります。キリスト教徒は、このことを信じ、自分の犯した罪のゆるしを祈ることによって「義とされる」のです。ここには、罪を犯した者だけが―そしてその罪を自覚した者だけが―救われるという独特の構造があります。(中略)ある種の宗教において、罪の自覚に類する要素が果たす役割は大きいのです。(『倫理とは何か』)
或いは(今現在の自分、社会は「伝統」から離反しているが)「伝統」に気づいた者、その「自己のルーツ」に自覚的なものこそ救われる、「義とされる」という独特の構造、例えばこれは「靖国の祀られた死者」をめぐる議論とどこかで通底してはいないだろうか。つまり「靖国に祀られている死者」は「キリスト」なのだ。日本人の罪を背負って死んだ犠牲者なのだ。であるならばその「罪」とは何か?それは無自覚なことだ。平和を無自覚に享受していることだ(けれどももちろんそのことは「ほんとうは」「良い」ことだ)。
何かと戦後民主主義の虚妄を言い立てる人たち、「これまで日本人は騙されてきた」と(生き生きとうれしそうに!)語る人たちは「良さ」の概念を転倒し、「自覚的」であることこそ「良き」ことだと主張し始める(「平和ボケ」という言葉が何故成立するのかを考えてみよう)。もちろんその「自覚」が更なる自己欺瞞でない保証はないはずなのだけれども(例えば「今の平和は靖国に祀られている死者のおかげだ」という論理は、社会科学的な因果律としてナンセンスであり、単なる信仰告白以上のものではないはずなのだけれども、その信仰に「自覚」的な者にこそ高い道徳的な価値が帰属させられる、という「気持ちの悪さ」を想起せよ)。「彼ら」が何故その手の宗教的「自覚」に目覚めてしまったのか、は正直分からない。
が、自分の世界のいわゆる「無自覚な幸せ」が「偽物だ」と考えたくなる人は、今ここではないどこか、しかもわざわざ自分の生きてきた「戦後の日本」といった具体的な歴史に根ざすものの他に「本当のもの」求めたくなる人は、やはりある意味で「不幸せ」なのだろうと思う。そのような幸せ、本物の価値を求めたくなる心性は、今ここに根差し何の疑問も抱かない「ノー天気な幸せ」とはギャップがあらざるを得ないからだ。そして「宗教」とはそういう人のためにあるはずのものだろう。
えーと、眠くて力尽きました。全然まとまりませんが、寝ます。ではまた。
(追記)
以前コメントを頂いたロマさんに改めてお返事を書かせて頂きました。お返事になっているかどうか、また随分前のことですのでもう来ておられないかも知れませんが、とりあえず、ということで。(12.25)


Comment (2)
私はリベラルな考え方ですが、自分の世界のいわゆる「無自覚な幸せ」が「偽物だ」と考えたくなる人の気持ちは痛いほどわかります。
例えば、「恋愛」を最も端的に本質的に表現すれば「差別」になるかとおもいます。しかもその差別は、自分なり相手なりが事故や病気に遭遇し容貌が激変したなら仮にどれほど性格が好かろうともその差別性は自分自身あるいは最も大切だと自分が思っている相手に向くのではないかと思います(「運命の顔」という本を読むと自分自身を含む人間の差別性に絶望的になります)。
だから戦後民主主義の虚妄を言い立てる人たちは方向は違えど基盤は私とほとんど同じ気がします。
結局、カミュの「シ-シュポスの神話」にでてくる「重要なのは病から癒えることではなく、病みつつ生きることだ」という言葉を旨として生きるしかないのかと思っています。
Commented by: ロマ | 2005年11月27日 01:45
日時: 2005年11月27日 01:45
ロマさん。コメント有難うございました。えーと少し思ったことを書き加えさせて頂きます。
「いまここにあるものの価値」が否定されたあとにくるもの、「いまどこにもない何か」「いまだ(実現)可能ではないもの」は、(トートロジカルではありますが)それが既存の価値の序列や道徳とは無関係(どころかそれにしばしば決定的に反する)ということです。
それは「宅間守的」な妄想かもしれないし、「バモイドオキ神」かもしれない。或いは逆に「それまで抑圧されている」とすら認識されてこなかったマイノリティからの=他者からの「呼びかけ」であるかもしれない。
前者は既存の価値・道徳と無関係であることは明らかですし、おそらくそれに取って代わって、「新たな価値」と認められることさえも現実的にはほとんどありえそうにないでしょう。逆に後者はどうでしょうね。既存の道徳からは無視されてきた点では同じですが、場合によっては「その抑圧は不正である」というように「新たな価値」として承認されることはあるでしょう。
例えばこれも何度か当Blogにはおなじみの登場人物ですがムルソーは、既存の価値からすれば逸脱した価値観を持つ人間ですが、「異邦人」は(多くの場合は共感を持って)あれだけ読まれたわけですから、彼の生き方、「自己欺瞞を徹底的に排する」という生き方は「それまでは認識されては来なかったが新たな一つの価値である」として全面的にではもちろんありませんが多少は承認されているのだと思います。
そして「承認されるか否か」は相当程度、やはり政治闘争の巧拙次第、的な部分も止むをえないかと思います。現在は憲法上認められている「新しい権利」や価値であってもそういう地道な政治闘争や、多くの憲法訴訟を経て徐々に勝ち取られてきた、というのもそれを象徴している気がします。
で、上記Entryに出てくる「英霊を尊敬せよ」と言う人たちは、それこそが認められるべき公共的価値だ、と思っているでしょうね。「英霊」という誰もがその存在を自明とみなすわけではない非科学的な存在が、新たに誰もが認めるべき価値としての地位を獲得するかどうかは、彼らがどうやってうまく政治闘争をやるかによるでしょう。ま、ネット上では賛同者も目に付きますが、実際はどうでしょうね。僕個人は彼らの議論は(僕にとっては)説得力を持たないし有害だと考えるので、それを指摘しているだけです。
とはいえそもそも「承認されるかされないか」と、現実の虚構性から抜け出たいとする衝動が実際に存在することは本質的には関係がないとも言えます。つまり「人に受け入れられるかどうかは知らない。ただ私はそうなのだ」とは言いうるし、また充分にアリですよね。
まあ、マイノリティ支援は「私の中では救われるべきだ」で終わっては意味がないのでやはり人に承認されることは必要でしょうし、上記の人たちの宗教的信念も信者獲得は必要…なのかな?あの場合は「私はとにかく信じている」でも良いはずだし、現にそういう人も中にはいるんでしょうけど。分からないですね。
まあいま「英霊」関係で前面に出てきている人が「病みつつ生きる」ということが出来ていない、ということは確かでしょうね。(何だか書けば書くほどまとまらなくなってきたのでそろそろやめにしておきます。)
Commented by: deadletter | 2005年12月26日 01:46
日時: 2005年12月26日 01:46