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2005年12月08日

「かけがえのなさ」への距離

Thinking

女系天皇をめぐる議論をみていて思ったこと。

僕が少し意外だったのは、これまで天皇主義者と思っていたような人たちが単に天皇の「ユニークさ」を強調し始めたことだ。いわく「天皇にはユニークなY染色体が受け継がれている」、いわく「125代男系が継承されてきた王家は他にない」云々。けれども「ユニーク」であること、「他にない」ことがすなわち尊重されなければならない、ということには当然ながらならないし、(「当為命題と事実命題の混同」という定型句を持ち出すまでもなく)実際に僕たちはユニークさをそれだけで評価したりなどしていない。

他にはないユニークな性格、価値観の持ち主だった宅間守は死刑にされたし、サカキバラはその人格を否定され矯正を強いられた。「ユニークさ」が尊重されるべきか、逆に否定されるべき価値でしかないかは文脈に依存している。「ユニークさ」を語るだけでは「尊重すべきだ」という結論を導くことは出来ない。

さらに言えば「ユニークさ」それ自体はユニークでもなんでもない。道端に転がっている石ころですら、形状、色、構成、来歴を調べてみれば「ユニーク」と言うしかない。この世界に存在する、あらゆるものはそれぞれにユニークであって、他にはない。つまり世界は常にユニークさに満ち溢れていて、ユニークさにおいて「共通」であり、ユニークさにおいて「等価」である。「等価」である限りその内いずれにコミットするべきかは、ア・プリオリには決定できない。

まとめると、「そのユニークさ」が尊重されるべきかどうかは外部文脈的に決定され、また「ユニークさそのもの」はユニークではないので、(男系)天皇のユニークさをもってその価値にコミットさせようとする議論はうまくいっていない。「ユニークさ」と「かけがえのなさ」の間には無限の距離があるのだ。

僕が思うに天皇を聖なるもの(故にかけがえのないもの)に祭り上げておきたい時、それを還元主義的に語れば「聖性」が剥がれ、「超越性」を失うのは必然ではないだろうか。というか、世界に内在するロジックでは語りえない、世界の外部に由来するものこそを、「聖なるもの」とか「超越的なるもの」とか呼ぶわけだから、それを「男系云々」「Y染色体がどうの」などと「内在」的に根拠付けてしまったら、台無しじゃないか、と思うのだけれども(「男系に固執するのは現代において男女差別ではないか」という主張に対して、天皇はそのレベルでは語れないのだ、と対話を打ち切ろうとする一部の保守派の態度は不誠実ではあるが、「その意味では」皮肉にも正しい)。

「超越」は「内在」に堕する、「超越」は「内在」的に理解せざるを得ないからこそ、それは語りえない、単に示されるのみだ、という感度が必要となるはずなのだが。というか、世の天皇主義者たちは、八木秀次などという「天皇から聖性を剥ぎ取らんとする不信心な輩」をイデオローグの座から早いとこ引き摺り下ろして、宮台真司とかに「リリーフ」を仰ぐべきではないだろうか(いや、それは逆効果か)。

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