メモ。
「教育基本法特別委員会質疑応答と弥次」より。
羽仁五郎著「教育の論理-文部省廃止論p80~85」のなかに興味ある歴史的事実の記述がある。[アメリカ教育使節団と文部省との問答]
敗戦直後の日本に派遣されたアメリカ教育使節団が1946年4月7日に出した勧告は次のようであった。「敗戦にいたるまでの日本の教育は、一言でいうと、政府すなわち文部省が、全国の教員にストレイト・ジャケット(手足が自由に動かないように皮ひもでしばりつける胴着)を着せていたような教育であった。だから日本の教育改革とは教員をストレイト・ジャケットから解放することであると。」この勧告に先立っての3月、アメリカ教育使節団は日本の文部省の代表と日本の教員組合の代表とを共同の会合に招いてそれぞれの意見を聞いた。文部省を代表したのが田中耕太郎学校教育局長であり、教員組合を代表したのが羽仁五郎であった。教育の自由を主張する羽仁五郎の討論に対して、田中耕太郎は「教師がまったく自由に教育することとなると、教師が教壇から共産主義の宣伝をするというようなこともありえようが、そのような場合に、アメリカではそれに対していかなる処置をとるのか、なんらの処置もとらないのか」と質問をした。それに対して、アメリカ教育使節団は、「アメリカでは教師がそういうことをすることはない。日本でも教師がそうするときめてかかって、そういう場合の処置をあらかじめ規定しておくというようなことはすべきではない」と答えた。その答えに押し返して、さらに田中耕太郎はつめよった。「アメリカにはそういう教師はいない、と言われるが、もし万一にもそのような教師がいたら、その場合には、あなたがたはどうなさるか」と。すると、使節団は次ぎのように答えた。「教師といえども人間だ。良心的な人間であればあるほど、自分に確信をもっている。良心的な教師は教室が自分の確信を発表する場所ではない、ということを充分に承知している。しかし、人間であるから、自分の内心の確信に誠実のあまり、教室で思わずそれを顔にあらわし、または言葉にだすことがないとはいえないだろう。しかし、それを責めることのできるのは神のみではあるまいか。」
(1)ところで学習指導要領を絶対化して教師を拘束し、行政が決めた内容をそのまま教えるだけで、そこに教師のパーソナリティ・オリジナリティも必要ない、と言うのであれば、文部科学省は、いわゆる「優秀な」教師のみ数人を選んで、モデル授業を録画して、サテライト授業をやればどうだろうか。人件費が大幅に削減出来て、しかも「偏向」教師による、学習指導要領から逸脱した「偏向」授業が行われる懸念は一掃されるだろう。
ついでに乱立する教科書も一つに統一してしまおうか。そうすれば「教科書採択」で「一部の人間の政治的偏向による介入」や揉めごとも無くなるだろう。
(2)それにしても、例えば伊吹の「教育内容は行政が決めたものをそのまま教えなければならない」かのごとき答弁は、非常に興味深いものがある。民主主義的決定=国民全体の意思としてそれを絶対視しそこからの逸脱を「不当」として否定する発想こそが全体主義そのものではないか、というごく常識的なツッコミはここではとりあえず置く。
そうではなくて、僕が指摘しておきたいのは、保守系議員・文化人が中国の教育を批判する時に頻繁に持ち出す「中国はひとつの教科書で、ひとつの歴史観(価値観)しか教えていない反自由主義的な国家である(が、日本はそうではない)」という論法が、まさにここで「自家中毒」を起こしている、という極めて皮肉な事態である。
「国家権力が教育内容をひとつに定めて、それを画一的に教え込むべき」なら、それは彼らがイメージし、批判する独裁国家=中国がやっていることそのものではないだろうか。ちなみに制度的には中国にも教科書は複数存在するようだから、伊吹の答弁通りの方針が採られるとすれば、彼らが蛇蝎のごとく嫌っている「はず」の国・思想的に相容れない「はず」の国と、いわゆる「美しい国」とやらは制度的にも発想的にももはや瓜二つなわけである。
というわけで、当Blogでは安倍内閣に対し、「美しい国」のより円滑な実現の為、1100年ぶりに「遣唐使」ならぬ「遣共使」を復活させることを提案したい。
「やらせミーティング」の上手なやり方を始めとする世論の統制の方法、子供に「その国独自の特定の価値観」を叩き込む洗脳教育のやり方、政権の方針に違反した者への厳しい罰し方、などなどその筋ではいまや先達であるらしい隣国に学ぶべきことは多いはずである。

