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2006年02月15日

神は誰に微笑むか

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ルキノ・ヴィスコンティ「ベニスに死す」を観たので感想でも。

ベニスに死す話としては単純。音楽家としての行き詰まりに加え体調を崩していた主人公、グスタフ・アッシェンバッハ(ダーク・ボガード)が休養地として訪れたイタリアのベニス。が、ベニスは実はコレラの蔓延する「死の町」だった。彼はそこでギリシャ彫刻のような"奇跡"の美少年タージオ(ビョルン・アンドレセン)に出会い、魅了され、町に留まりつつけることの危険を知りつつも、彼の後を追い、町中を徘徊する。やがてコレラは彼を侵し、彼は海で戯れるタージオを浜辺から見つめながら死んでいく。

思ったのはこれは「アマデウス」とちょうど逆のエンディングなのだなあということ。

アマデウス「アマデウス」ではモーツァルト(トム・ハルス)の天与の才に誰よりも魅了され、理解していたサリエリ(マーレイ・エイブラハム)は嫉妬に負け、策を弄しモーツァルトを死に追いやる。つまり神の子を殺し、自分が生き延びることを選択した。その結果彼は自分の作った曲がその後一切省みられず、逆にモーツァルトの遺した"奇跡"が光り輝き続けるのをその目で見続けなければならない羽目に陥った。神は狡知に長けた、賢しらな「裏切り者」に最も過酷な罰を与えたのだ。

一方「ベニスに死す」のグスタフは、神に愛された者の"奇跡"を受け入れることで、幸福な死を迎える。死化粧が汗で崩れた醜い死に顔には、至福の微笑さえ浮かんでいた。神は自らに膝を屈する者を自らの国へと迎え入れたというわけだ。

ここには神が絶対的な暴君であること、そして彼が為す「才能(容姿であれ、作曲家としての才能であれ)」という財の配分の背景には、「理不尽さ」しか存在しないことが前提とされている。人にはその「理」を、超越者の合理的な意図を見通すことは出来ない(というか、合理的な解釈を拒むものを超越者とかなんとか呼ぶわけなのだが)。

そしてその配分に異議を唱えたり、歪めようとする者を神は許さない。いかにそれが平等という経験的正義に反していようと、それは人間の尺度であり、そうである限りその尺度を持って神に干渉することは神への裏切りなのだ。「不条理は不条理のままで受け止めよ」。そのメッセージがこの二つの宗教的な映画には溢れている。

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