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2006年03月06日

「ホテル・ルワンダ」

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実はもう2週間以上前に観ていたりする。感想を書こうかなとは思っていたのだけれども、色々私的な事情が重なってBlog自体書けなくなっていた。

個人的にはswanさんの見方に賛成。彼は単純に家族を守ろうとしただけでも、職業倫理を貫こうとしただけでもない。

パン売り少女は内生的に社会的役割を演じた結果、正義が実現された、のではなく、むしろ、少女が志向する社会的善と合致する規範(法令)を利用し、差別的な因習に対して武装したのだ、と。職業倫理は悪しき因習に対する盾である。
僕もそう思う。主人公のポールは自分と自分の家族を最優先に守ろうとしながらも、やはり最終的にはそのエゴを超えたところにたどり着く。彼は「悪しき因習」、傍目からは何の違いもないような人たちが相手を「ゴキブリ」と罵り・虐殺することに麻痺していく大きな流れ、そのことにプロテストする。そこにはやはり普遍的な倫理があったと思う。

ちなみに僕は、虐殺を止める為に個人個人の倫理に賭けようとする町山説も否定しようとは思わないが、やはり理性的なメディアが介在した民主主義体制の成熟がまず必要なのではないかと思った。どんな社会でも市民の声が感情に流されることはあるだろう。そこに理性の力で棹を差し、「逆バネ」を効かせる内在的な力が存在すること、それを「民主主義的成熟」と呼ぶならそれこそが、まさにあの時のルワンダに欠けていたものだったのではないか、と思う。

傍目には何の違いもないはずの「民族(?)」について、一方を「ゴキブリ」と罵り、「抹殺せよ」と呪い・煽るラジオの声。その声の主は最後まで明らかにされず徹底的に匿名である。つまりあの声は他者とされたものに対する、僕たちの内に突如として現れる正体不明の、感情的な憎悪の声なのだといっていい。そしてそれが映画であると分かっていても目を背けたくなるような虐殺を正当化するのだ。あの声に屈服するかしないかそれ以前に、それを相対化するだけの多様かつ寛容でさらにまた強靭な言論空間が保障されてあるか、構築できているかがルワンダと非ルワンダを分けるのではないか、僕はそんな風に思った。

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Comment (5)

>個人的にはswanさんの見方に賛成。彼は単純に家族を守ろうとしただけでも、職業倫理を貫こうとしただけでもない。

あわわ大変だ。はやく観にいかなければ。もはや義務?

情報の欠如が悲劇を生む、という反省は、偏見・差別、虐殺、戦争、外交、政策決定のすべてに通底するように思います。

昨日みたNHKの番組によると、終戦後に占領軍の調査団は、日本軍が持っていたアメリカの軍事技術についての最新情報がなんと昭和13年以前のものであった、と知ったそうです。

19世紀のアメリカの奴隷が逃亡奴隷による告発を知ることなしには、いかに自らが虐げられた環境にありながらも奴隷制を疑うことすらできなかった、ということを思うと、自由な情報の流通と交換(表現の自由)という社会的な利益は強調しすぎることはないと思いました。

deadletter:

「C amp 4」の愛読者としては実際にswanさんが映画を観にいらした後の「力作Entry」を期待してるのは事実ですので、少しだけ僕からも背中を押してみようかなと(笑)

>自由な情報の流通と交換(表現の自由)という社会的な利益

某国会議員の国会質問に対する「強過ぎる」風当たりにもちょっとそんなことを思ったり。田中真紀子氏の長女の離婚報道で、「公人論」を盾にした「言論の自由最優先論」がありましたが、それは一体どこへ行ったのかと。

情報の欠如を補ってきました。

>つまりあの声は他者とされたものに対する、僕たちの内に突如として現れる正体不明の、感情的な憎悪の声なのだといっていい。

観たので腑に落ちました。
森達也氏が北朝鮮の拉致問題について次のように述べたのを思い出します。

「 拉致被害者の深い哀しみや苦悩など、テレビの前の第三者が簡単に共有できるはずがない。共有しているのは憎悪の表層部分です。「許せない」などの述語が典型的です。つまり主語がない。強いていえば、「私たち」などの曖昧な複数名詞です。だから述語が簡単に暴走する」
http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20050104#20050104f1

deadletter:

とても興味深い言葉ですね。僕ももう少し色々考えてみたいと思います。

はじめまして。
ルセサバギナ氏とホテルについてですが、ぼくは町山さんともswanさんとも別の印象を受けました。「志向する社会的善と合致する規範(法令)を利用し」という場合、かなり冷静な判断が働いていると思われるわけですが、『ホテル・ルワンダ』で描かれている状況は、そのような冷静な判断が可能であるような場であるとはとても思えませんでした。むしろ、いつ殺されてもおかしくはない極限の状態で、それにすがることで辛うじて正気を保つことのできた唯一のものが四つ星ホテルという象徴であり、またホテルマンの象徴的な仕草だったんだ、というのが映画を観て感じた素朴な印象でした。だから、ホテルとしての秩序を保とうとする姿に、冷静な判断に基づいた機略ではなく、もっと生々しい切実さというか狂おしさというか、そういうものが感じ取られて胸をうったのでした。
失礼しました。

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