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2006年03月11日

ミクロとマクロ

Memo

前回僕は不用意にも「まずは」民主主義的な社会、逆バネの効く社会が構築されることが肝心、などと書いてしまったが、やっぱりシステムを構築するのって結局ミクロなパトスの下支えがあってだよなあ、とも思う。そんなことを改めて思い出させてくれた記事や発言をメモ。

まずはpavlushaさん

システム的解決法が理論やモデルの設計・構築に当たるなら、人格的解決法はその理論やモデルに対する検証や反証の手続き、または理論やモデルそのものを作ろう(または適用しよう)と意欲するための契機に当たる。どちらにもそれぞれ重要な機能があり、どちらか一方だけあれば足りるというものではない。
お次は山形浩生さんのとてもかっこいい発言
ぼくにとって制度とはそういうものではありません。制度とは、結局のところ、その社会の構成員が自主的に(いやいやかもしれなくても)やることの総和です。法律なんて、そのごくごく一部でしかありません。ですから制度を変えるというのは、ぼくにとってはまず自分からその行動を起こすことです。現在の著作権制度やソフトウェアのあり方について疑問だと思えば、ぼくはそれを少しでもよくすると思われる活動をしますし、またそれに関連した団体に寄付をして、現状を変える努力をします。途上国援助についても、足りないと思っているので、そこそこの寄与を自分の評価に基づき私的に行います。その上で、言論活動を通じて制度改変の必要性をも訴えます。それに賛同して自主的にやる人が増えれば、制度というのは変わるんです。既得権益がにらみ合いになったり、手詰まりに陥っているときにのみ、お上頼みの強制的なてこ入れはあり得る。またマクロ経済政策のような、個人では何ともならない部分もある。でも、個人でできる部分もあるのです。むしろそのほうが遙かに大きいのです。
もういっちょ、山形さん
マクロはミクロの積み重ねでしかありません。それは100人の村だろうと1億人の社会だろうとまったくかわらないのです。一人の活動の量は確かに小さい。でも、マクロな制度の変化は、その小さい活動の積み重ねでしかない。所得の4割を税金として召し上げようという制度を作るためには、一応民主主義の建前として、その社会の構成員みんな―あるいは過半数か多数―が、所得の4割を社会に拠出することがよいことだと納得しなくてはなりません。そしてそこで納得するのは、「マクロな社会」とかいう抽象的なものではなく、ごく小さな力しかない、ミクロな個人なんです。

その議論を納得させようとしている当人が「オレの貢献なんて小さいから行動しない」と明言するのであれば、その人は納得させるべき数千万人の最初の一人である自分すら説得するのに失敗しているのです。

そして有効に機能する制度においては、人は自分の貢献が小さくても、それが社会にとって確実によい影響を与え、役に立っているのだと感じなくてはなりません。自分の貢献、自分の行動が小さくても、それが多少なりとも社会を支えているのだと実感し、制度だから何かをやるのではなく、自分が自発的にそうしたいから(少なくとも、そうしないと困るから)やる、という状態にならなくてはいけません。人が社会に所属し、社会の一員としての意識を持つというのはそういうことです。みんなが「おれの貢献なんか小さいんだからやっても無駄だ」と思うような制度は、制度としてそもそも成立しないし、それが拡大すればその社会の存立すら危うくなります。

マクロ経済で言われる「合成の誤謬」みたいなのはあくまで例外。個々人の意思の積み重なりが制度を作り変えていくんだというのは、確かに時に気が遠くなってしまうような話かも知れないけど、やはり基本だよなあと思ったり(個々人が変われば制度は変わるんだとポジティブにとらえればそれは「希望」でさえある)。「ポールさんになったところで何も変わらない」とか「差別と区別の違いは曖昧」とか賢しらなシニシズムに戯れているだけで、個々の実践には一向に背を向けている人間が大半を占める社会で、どうして虐殺の芽を勝手に事前に摘んでくれるような都合のいいシステムが出来るのか、ということですね。

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