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2006年06月29日

おまえに何が分かるというのか?

Thinking

Blog「どん底あるいは青い鳥。」の「光市母子殺害事件雑感」より。

死刑制度を支持する人は「自分の家族が殺されたら死刑を望む」と何とかの一つ覚えのように繰り返す。だが誓ってもいい、もしも本当にあなたの家族が殺されたなら、あなたはきっと「そのような仮定のもとに死刑だけを求める(今のあなたのような)人」に強い不信感を抱くだろう。

かのニーチェを思い出させる(今手元に本がないので、適当にネット上から拾ってきた)。

私が同情心の持主たちを非難するのは、彼らが、恥じらいの気持ち、畏敬の念、自他の間に存する距離を忘れぬ心遣いというものを、とかく失いがちであり、同情がたちまち賤民の臭いを放って、不作法と見分けがつかなくなるからだ。
最も深く、最も個人的に苦悩しているとき、その内容は他人にはほとんど知られず、窺い知れないものである。
だが、苦悩する者と知られたときには、苦悩は必ず浅薄な解釈をこうむる。他人の苦悩から、その人に固有の独自なものを奪い去ってしまうということこそ、同情という感情の本質に属することだ。恩恵をほどこす者は、敵以上に、その人の価値や意志を傷つける者なのだ。

「加害者は許せない だけど死刑には反対です」(1)(2

こういった話を聞いても、死刑賛成派の人たちはたいてい「ごくまれな例外だ」、「そんなにみんな聖人君子なわけじゃない」といって耳を貸そうとしない。つまり、「原田さんの気持ちなど理解できない」というわけだ。ところが、同じ犯罪被害者にもかかわらず、本村さんの気持ちなら容易に理解できるというわけだろうか。理解しがたい被害者と理解できる被害者とがいるというならば、彼らはなぜ本村さんの気持ちは理解したと言いうるのだろうか?なぜ本村さんの気持ちは容易に代弁しうると思えるのか?

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Comment (5)

ロマ:

deadletterさん、こんばんは。
2度目の書き込みです。

社会による被害者の恣意的な選別という同じようなテーマで作家の宮崎学さんのブログの3月15日付「弁護士安田好弘を擁護する」の下から8番目に投稿者Kとして私が書き込んでいますので御覧戴ければうれしいです。

これは被害者について書いたのですが、
一方で、加害者についても容貌によって量刑が大きく変わるという選別が為されているというアメリカでの調査結果が日本で報道されたと記憶しています。
アメリカ人女性の強盗犯か窃盗犯が顔の美醜によって量刑がだいぶ違うと言うものでした。ググってみてもそれらしい話が出てこないのですがネットなり本なりにその話が出ているとご存知でしたらお教えいただけるとありがたいです。

deadletter:

ロマさん。こんにちは。再度のご訪問ありがとうございます。(貴コメントにつき多少の改行をさせていただきました。ご容赦ください)

宮崎さんのEntryでの貴コメント、拝読させて頂きました。人権派弁護士の正義を懐疑するとき、被害者(正確には被害者の遺族ですが)感情を考慮せよという一方の正義をも懐疑の対象に入れてもう一度考えてみる、そういう二枚腰をもつ人が増えれば、もう少し建設的な議論がなされると思うんですが。

外見・容貌と量刑の関係については僕もそんな話を聞いたことがありますね。ロマさんのおっしゃる例にピタリのものは見つかりませんでしたが、

<丸田隆「アメリカ陪審制度研究」(88 法律文化社)328ページ

「被害者が外見や経歴、家族関係などから魅力ある場合、被告人は、平均して一〇・五五年の禁固刑を受けたが、そうでない場合、八・四八年であった。被告人の性格に関しても、被告人に魅力のあるときは、八・五八年であるのに対し、そうでない場合、一一・七五年であった。被害者や被告人の個性が陪審の量刑に少なからぬ関係を有することが示された。つまり、人々は、もし被害者が魅力ある人物ならば、その犯罪は重大であると判断しがちである。」 >
http://www13.big.or.jp/~yokayama/debate/sankou/julyneg.html

というページが見つかりました。これ以外にも「黒人と白人には量刑判断に差がある」というのもよく言われることですよね。

ロマ:

deadletterさん、こんにちは
調べていただき大変ありがとうございます。やはり数字で示されると実感しやすいです。宮崎さんのブログに書き込んだ内容は「現代思想」2004年3月号「死刑肯定と減刑嘆願のアナロジー」を下敷きにしております。

私は世論と違ってむしろ光市の事件の遺族男性の発言によっていままで死刑に漠然と賛成していたのが反対に変わり、「現代思想」のその記事によって死刑反対が決定付けられました。まだ久米さんがニュースステーションに出演していたときに男性が出演されて、朝日新聞の清水編集委員が「死刑廃止論をどう思うか」と尋ねたときに「冤罪の可能性が死刑廃止の根拠にされるが誤判の可能性は死刑に限らずあるので死刑だけを特別視すべきでない」と話すのを見て、自分の家族の命が奪われるつらさを誰よりも痛感しているはずの人が誤判により「絶命する」と「絶命しない」を同列に扱うことに複雑な心境になりました。

加害者の償いの対象について芹沢一也さんは自身のブログ
http://ameblo.jp/kazuyaserizawa/entry-10012920138.html

に「遺族の有無、あるいは遺族の感情のあり方によって、加害者の処遇が左右されるということになる」と書いてらっしゃいます。実際、ホームレスの人が殺害された場合には社会もマスコミも打って変わった態度を示します(数年前に公園のくずかごに爆発物が仕掛けられてホームレスの男性が亡くなったときには「フライデー」はモザイクなしで首や手足がばらばらになった写真を掲載しました。イラクの香田さんの時はモザイクをかけていました)。

光市の遺族男性は「情状酌量」というものを否定する主張をされています。私は法の下の不平等を是正し、社会の正義の欺瞞を払拭する考えから「情状酌量」の否定に賛成なのですが、正当防衛と見なし得る場合以外は情状酌量を認めないというような法制度についてdeadletterさんはどのようにお考えになりますか?だらだらと書いてしまいすみません。

ロマ:

説明不足ですみません。情状酌量を認めないというのは裁判官は犯罪をやったかやらないかのみを審理し、量刑は機械的に算出するということです。たとえば殺人なら正当防衛以外終身刑、強盗なら1件につき懲役5年みたいなことです。

deadletter:

ロマさん。こんばんは。

「情状酌量」については、以前少し違う文脈ではありますが触れたことがあります。

http://deadletter.hmc5.com/blog/archives/000069.html

さて「光市」の件はまさに「情状酌量をめぐる争い」だったのではないか、というのが僕の(素朴かもしれませんが)見方です。量刑判断が、「ある基準」に従って機械的になされる、とすれば、今回の件は死刑になりえなかったのではないでしょうか。そういう意味では、今回の事件ほど「情状酌量」という概念に依存した判決は無かったような気がしています。

今回の加害者の行為は、「それが社会的に理解可能な文脈に位置付けられないもの」だからこそ、「より悪い」、「人でなしのやることだ」とされたのではないか、と僕は考えています。

ちなみに、その量刑判断の根拠となる「基準」ですが、それ自体も機械的に算出可能、というものでもないように思います。

とすれば「基準」に従って機械的に算出することが仮に可能であっても(ちなみに僕はそうは思わないのですが)、その「基準」自体は機械的に算出可能でないので、結局恣意性からは逃れられないのではないでしょうか。

「正当防衛以外は終身刑」という基準も、何をもって正当防衛とみなしうるか、という解釈論から逃れられませんし、またその基準が「杓子定規に過ぎる」=社会正義に適っていない、と批判されるケースも十分に生じうることを考えれば、なかなか難しいように思います。

(追記)
>「冤罪の可能性が死刑廃止の根拠にされるが誤判の可能性は死刑に限らずあるので死刑だけを特別視すべきでない」と話すのを見て、自分の家族の命が奪われるつらさを誰よりも痛感しているはずの人が誤判により「絶命する」と「絶命しない」を同列に扱うことに複雑な心境になりました。

確かに複雑な気持ちになりますね…ほんとうに。

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