前回の補足。
日中国交正常化交渉において、(1)日本側が「今次田中総理の訪中は、日本国民全体を代表して、過去に対する反省の意を表明するものである。従つて、日本が全体として戦争を反省している」(大平外相)とまさに、「日本全体が悪かった」と平謝りしていること、(2)それに対して中国側が「中国は日本の一部の軍国主義勢力と、大勢である一般の日本国民とを区別して考えており、中国の考えは、むしろ日本に好意的である」と助け舟を出している、ことは前回述べた。
被害者がわざわざある加害者グループの特定の部分に責任を限定してくれている(責任は主犯格にあるのであって、そうではない「あなた」には責任は無い)のに、「いや、みんなに責任があったのだから、その限定は受け入れられない」と言い出す加害者は、普通に考えればかなり「非合理的」な思考の持ち主であると言わざるを得ない。
またその論理に従えば「軍国主義者どころか日中戦争に従軍した一兵卒まで」顕彰すべき英霊として祀ってある靖国神社に参拝せんとすることは、なおさら道理に合わないというべきだろう。「分祀すれば済む」どころの話ではない。
けれどもこの一見非合理な主張にはある思惑があるのではないか。すなわち「戦時指導者にも、そうでなかった一国民である私にも、あなたにも責任はあるのだ」という言説の意図するところは結局のところ、「責任の相対化」にあるのではないか。つまりその言説は「一部の指導者のみならず、各々の責任をラディカルに問う」という方向には決して向かわず、「仕方が無かった」、「そうするより他無かった」というように、もっぱら責任を「希釈する」ために主張されているのではないだろうか。「みんなに責任がある」→「誰にも責任は無い」というように。彼らは倫理的に厳格なのではありえない。むしろ倫理的な「ユルさ」が、何らかの形で(暫定的であれ)、とにもかくにも、誰かに責任を帰属させることを「先延ばし」にさせているのだ。
「ドイツは戦争犯罪の責任をナチスにのみなすりつけた狡猾な国民だ」と主張する人間が、日本の犯した戦争犯罪について、真相解明や(戦時指導者以外の)責任追及に「真摯さ」を発揮したことはない(例えば西尾幹二はその典型だろう)。彼らは「責任問題」を常に曖昧にさせておきたいからこそ、「その帰属のさせ方は不正確だ」と異議を唱え続けるのだ。責任の取り方、帰属のさせ方に唯一の正しい処理の仕方がありえないことを考えれば、その気になれば異議はいつまでも唱えることが出来るだろう。いかにも自分はラディカルな責任観、倫理観の持ち主だ、というポーズを保ち続けながら。
ちなみに以前「切り離しの倫理」のコメント欄で書いたのだけれども、結局「責任」の処理については「五十歩百歩」であっても、きちんとその「五十歩の差異」を問うことからしか始めることは出来ない、と僕は思う。逆にいつまでもその線引きをせずに、責任の帰属に関して「先延ばし」をし、問題を留保し続けることほど無責任なことはない。
ところで、以前まで上述のような欺瞞的態度をとり続けていた(最近部分的に、渋々ながら持論を撤回し始めたらしいのだけど)人間が、どこかの国の首相の座にまで上りつめ、あまつさえ「美しい国へ」とかいうお題目を説教して回っているそうだ。ブラックジョークもここに極まれりというべきか。

