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2007年12月06日

自衛隊で学べること・学べないこと

Thinking

東国原宮崎県知事が「若者に倫理を教え込む為に自衛隊に送り込め」と発言した件については、これまで多くのそして様々な観点から、「的確な」批判が為されてきたわけだが、遅ればせながら僕なりの意見を述べてみることにしたい。

以前僕はJ.ジェイコブスの主張する「市場の倫理」と「統治の倫理」を引用したことがある。すなわち、およそ「倫理」と呼ばれうるものには2つの型があり、1つは統治型(=領土に対する責任に関する)道徳であって、もう1つは商業型(=商業とそれに関する財やサービスの生産に関する)道徳であるというものだ。

統治型道徳とは(典型的には例えば自衛隊が備えているべき道徳)

「取引を避けよ」/「勇敢であれ」/「規律遵守」/「伝統堅持」/「位階尊重」/「忠実たれ」/「復讐せよ」/「目的のためには欺け」/「余暇を豊かに使え」/「見栄を張れ」/「気前よく施せ」/「排他的であれ」/「剛毅たれ」/「運命甘受」/「名誉を尊べ」
というものであり、商業型道徳は(例えばGoogleなど)、
「暴力を締め出せ」/「自発的に合意せよ」/「正直たれ」/「他人や外国人とも気やすく協力せよ」/「競争せよ」/「契約尊重」/「創意工夫の発揮」/「新奇・発明を取り入れよ」/「効率を高めよ」/「快適と便利さの向上」/「目的のために異説を唱えよ」/「生産的目的に投資せよ」/「勤勉なれ」/「節倹たれ」/「楽観せよ」
となっている。
統治者は、お金に目がくらんではならないし、法などの強制力を担保するためには物理的な力は不可欠だ。物理的な力を行使しうる以上、それは統制と規律がいきわたっていなければならないし、その為には上司と部下の上下関係はハッキリしていなければならない。さらに敵味方関係なく=差別せず取り扱うということは出来ないし、時には共同体内に生じた報復感情も代替しなければならない…等々。

他方、商業が成立する、または商業的に成功するためには暴力による収奪が存在しないこと、不正直が相当程度低い水準に抑制されていることが必要だし、身分や共同体の内/外による差別=取引相手に対して不平等な取り扱いがなされていてはならない。新しいものを取り入れ、効率を高めなければ、競争相手に負けてしまう。そして新しいものを取り入れる=改善の努力には「既存のシステムへの異議」が不可欠だし、効率的であるためには「コストの節約」が必要だ。

さて、東国原知事は若者に自衛隊の規律を、すなわち「統治型道徳」を学ばせたいと主張する。しかしJ.ジェイコブスによればそれは「商業型道徳」とは相容れないものである。統治型道徳では「剛毅たる」ことは尊ばれるべきファクターであるが、商業に関する場においてはそれはややもすれば「暴力的」であるとして否定される。「既存のシステムを遵守すべき」と統治型道徳は教えるが、商業的な場面においては、「既成概念に対するブレークスルー」こそが重視される。

つまり「統治型職業」=自衛隊で学ぶことの出来る規律が、そのカテゴリー外の職業=商業型職業においては寧ろ忌むべきものでありうるわけである。宮崎県の産業振興(「おもてなし日本一」)の旗を振ろうとする人間が、「取引を避けよ」、或いは「位階尊重」、「排他的であれ」などを要請する「統治型倫理」を官僚志望でもない若者にも学ばせようというのは、笑えないジョークでしかない。

東国原知事は「モラル」といった言葉で具体的にどのような内実を指示しているのか自分でも分かっていないのだろうし、「若者とは誰のことか」、そして「実際にその彼らにいかなる局面において何が不足しているのか」もきちんと考えたことがなく、一切を思いつきで喋ったのだろう。いや、そもそも「モラルとは何か」すら考えたこともないのだろう。

ちなみに僕が思うにどちらにも当てはまる倫理がある。「愚か者をのさばらせるな」である。

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