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2007年12月17日

「一意的な解」を僭称する人々

Thinking

前回のEntryの補足。

それほど注意深く読んでもらわなくても分かると思うのだけれども、別に僕はジェイコブスの「2つのカテゴリー論」を前提にしていない。僕は単に「普遍的な倫理」、もっと分かりやすく言えば、「あらゆる局面において適用しうるモラル」など「存在しない」ということを前提にしているだけなのだ。

ところで僕は先日、俳優の吉田栄作が「R25」のインタビューで興味深い逸話を披露しているのを見た。彼はまずインタビュアーに「自衛隊員にとって最も重要なスキルはなんだと思うか」と問いかけ、最新作の映画の役作りの為に入隊した自衛隊の部隊の上官が教えてくれたことを得意げに披露したのだ。ちなみに彼が言うには、それは「使命感」なのだそうだ。

まず指令があって、ターゲットに向かっていく以上、それだけに貪欲であらねばならない
まず使命感。体力も頭脳も思いやりも、それを全うするために必要なだけ。「劇中で、3年間行動をともにした部下の死体を見つけるシーンがあるんですが、西崎と落合が感傷的になるなか、僕は敬礼をしたら、彼の装備を探る。使える武器は全部自分のものにして先を急ごうとする。あれがまさにそう」

このような倫理の「秩序体系」を学ぶことを、誰がどの場面で欲しているのか、「モラル教育の為に徴兵制必要」論者は具体的に考えたことがあるのだろうか?僕にはこのようなモラルを叩き込まれた人材が一般的に有用な人材であるとはとても思えない。つまるところ自衛隊で学べる倫理は所詮非常に限定された場面において有効なもの、非常に特殊なものに過ぎないのではないだろうか。

モラル教育の手段としての「徴農制必要論」者も、「ボランティア活動強制論」者も同様の錯誤に陥っているように僕には見える。そのような場で必要とされ、学ぶことの出来る「職業倫理」は普遍的なものではありえない。あくまでそのような場においてのみ通用する限定的な、特殊なものである。

「この社会にはモラルが欠けているのでモラルを何らかの手段を通じて教えこまなければならない」という議論はおそらくそもそもの出発点が間違っている。自衛隊にも農業やボランティアの現場にも、市場競争を勝ち抜こうとする企業人たちにも、それぞれのモラルがあり、そしてまた「必然的に」ある種のモラルが欠けているのだ。

モラルとは「他者との関係性」において成り立つものである。僕たちが「どのような他者をいかに捉え、志向し、向き合わんとするか」がモラルの内実を規定する。抽象的に「モラルを教え込め」という人間がモラルの全てを知りえたとでも言わんばかりの発言(故にモラルが不足している、だとか~すれば簡単に教え込めるだとか放言できるのだろう)をするたびにその傲慢さにうんざりさせられる。彼らは、ソクラテス以降延々と議論されてきた「善く生きるとはいかなることか」という議論に最終的な決着をつけたとでも言うのだろうか(ヴィトゲンシュタインのように!)?だがもし彼らが言うようにモラルの内実が簡素にして、さに確定的であるなら、例えば生命倫理を巡る議論はなぜあれほど込み入り、そして揉めるのだろうか。

僕は自衛隊に放り込んでも、農作業をさせても、道徳の時間を必修化してテストをやらせてみたところで、モラルの深みには決して到達することは出来ないだろうと思う。「どのような他者をいかに捉え、志向し、向き合わんとするか」に一意的な正解などあるはずもないからである。

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