« 身辺雑記 | Main | 「橋下徹の当選」の意味 »

2008年01月29日

上品な趣味について

Thinking

僕は福士加代子は非難しないが、あれを「感動した」とか言っている人を見るとうんざりする。

「諦めずに最後まで走りきったことはこれからの糧になる(意味がある)」と主張しているコメンテーターがいるのだけど正気なのだろうか?「最後まで完走したこと」にあのレベルの選手として客観的な「意味」があるわけがない。だいたい、レース前「福士加代子は42.195kmを完走できるか」に関心を寄せていた人がどこにいるというのか。「完走など出来て当たり前で、どのくらいの記録を出せるか」を注目していたに決まっているのである。福士が「マラソンを完走できるかどうかのレベル」にないことなど誰もが知っていたはずじゃないか。何故シラをきろうとするのか?

逆に「諦めずに」完走したところで、平凡な記録に終われば「期待外れ」と言われるのがあのレベルの選手たちの宿命である。現に今回のレースで日本人トップでゴールした選手など、その「平凡な記録」ゆえ誰も見向きもしないわけである。何故福士だけ「完走しただけで素晴しい」の大合唱になるのか全く理解できない。

「最初から飛ばしてあのスピードで押し切るというスタイルこそが世界一を目指す者としては必要で、その勇気が素晴しい」と言っている人を見かけたが、それも所詮は詭弁だろう。もちろん、一発勝負で後がないところを彼女が自身の目指す理想のスタイルを貫いたことを「勇気」と認めるのはやぶさかではない。が、だとしても終盤の「公開処刑シーン」は蛇足だったはずである。記録、或いは日本人トップという可能性が潰えた時点で棄権すればいいのだ。

彼女は世界記録保持者の「皇帝」ゲブレシラシエの助言を聞いてそのスタイルを貫こうと考えたという。スピードを鈍らせない為に、長距離をコツコツと走るという定石をあえて無視していわゆるブレイクスルーを狙ったのだと。そしてそれが自分に一番合った調整法であると。その選択自体を非難しようとは全く思わない。

だがそれは「失敗だったこと」が、彼女にゲブレシラシエのような調整方法でマラソンを走ることは出来ないということが30km過ぎに明らかになってしまったわけである。Game is over.賭けは終った。ただそれだけのことだ。

もちろん「自分も皇帝になれるのだ」と信じていた彼女は悔しいに決まっているだろう。彼女のプライドはズタズタになったかもしれない。でも(陳腐な言い方だが)そこから再起することも、過ちを認めてやり直すことも「勇気」の一つの示し方だったはずだ。彼女は選択を間違えただけだ。常識に挑戦することは悪ではない。罪を犯したわけではない。けれども彼女はその無様な姿を晒し続けた。何かの罰を受けているかのように。

が、大衆はその本来蛇足であるはずの、「公開処刑シーン」にこそ熱狂したわけである。フジテレビのカメラは舌なめずりをしながら彼女が苦悶する様を延々と映し出した。マスメディアの欲望は大衆の欲望である。メディアは、大衆の望むものをこそ差出し、事実大衆はそれに熱狂したのである。福士は哀れな生贄だった。もちろんそれは彼女の意思だったと。体のいい見世物にされることも彼女の選択したことであると。そういうエクスキュースはあるだろう。しかしその尻馬に乗って「感動した」と言い募る人間には、「趣味がよろしいことですなあ」と厭味の一つくらい言っても許されるだろうとは思う。

Trackback

Trackback URL for this entry:

http://deadletter.hmc5.com/blog/mt-deadlettertrackback.cgi/153

Post a comment

(CommentSpam対策などの為、管理人に承認されるまではコメントは表示されません。表示されるまでしばらくお待ちください。なおコメントマナーについてはこちらをお読みください。)