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2008年02月02日

「橋下徹の当選」の意味

Notes

はてなブックマーク - ぼやきくっくり | なぜ大阪府民は橋下徹氏を選んだか
はてなブックマーク - はてなブックマーク - ぼやきくっくり | なぜ大阪府民は橋下徹氏を選んだかあたりの議論に関して。

はてなブックマーク - 「ネガティブ・キャンペーンだ!」というネガティブ・キャンペーン - モジモジ君の日記。みたいな。

この中のD_Amonさんのコメントにあるように、橋下に投票するということは橋下の発言に見られる価値判断にコミットすることと事実上同等の意味を持つ。

「橋下氏の財政再建策に同意しただけで、核武装発言にはコミットしていない」とか、「買春は中国へのODA」という発言には同意していないとか、まあどのような意図で彼に投票したのか(支持を与えたのか)は人それぞれだろう。

が、ポイントは日本において憲法で定められている「自由委任の原則」の下ではそのような「意図」はあまり意味がないということだ。以前僕が書いたことを再掲してみる。

例えば、国会議員は選挙区の有権者に対する奉仕者ではなく、国民全体に対する奉仕者だ、とよく言われる。さらに言えば「個々」の国民の意思が問題なのではなく、「全体」としての国民の意思が問題だ、というわけだ。でも一体「個々」ではない「全体」ってどういうものなんだろうか。少なくとも具体的な存在、指示対象ではないことは確かだ。とすると、これは「法人-機関」関係とよく似てくる。具体的存在ではないものは、それがこの世界に現象するために機関(=器官)を必要とする。つまり「国民(全体)の意思」なるものは、それが現象する為に国会議員がいなければならない、というわけだ。もう少し強調して言うと、議員が存在して(具体的に行為したり、意思を表明したりして)初めてその背後に「国民の意思」なるものが想定される、ということになる。

これはかなり驚くべき考え方ではないだろうか。個々の有権者が何を考えていようと一旦議員が選出されれば、彼が意思したことが(それがどのようなものであれ)すなわち国民の意思なのだ、というのなら、事実上代表者は国民の意思なるものを恣意的に解釈せざるを得ないし、つきつめればそうすべきだ、ということになりかねないからだ。

ざっくりと言ってしまえばこれが「自由委任」というものの「原理」だということだ。彼は自身を支持した大阪府民がどのような「意思」を持っているのかを恣意的に解釈できる(解釈せざるを得ない)。彼が為した、政治家としての認識が問われる種々の発言について彼は、「支持された」=「それが民意である」と解釈出来るのである(そしてさしあたってそれを否定出来る内在的制約は存在しない)。それは例えば石原慎太郎についても同じ。「東京オリンピックには賛成しないが…」というような「東京都民」なるものの「真の意図」とやらがあったとして、それを石原が汲み取るべき理由はない。

そのこと(=選挙後には彼は「民意」の解釈権をさしあたって独占できるということ)を弁えていれば、橋下徹が政治家としてどのような認識を持っているかを知らせることがなぜ否定的に捉えられなければならないのかさっぱり分からない。繰り返しになるけれど、「民意」は恣意的に解釈され、橋下の主張にさしあたってコミットしたとみなされる(みなされざるをえない)のだから、それを前提に少なくともあらゆる材料は選挙前・選挙中に出されるべきでないの?それが候補者にとって肯定的なものであれ、否定的なものであれ。

ま、「郵政民営化」だけで他の議論を全くせずに勝った党が、反対派の復党を認めたり、憲法改正をぶち上げたり、「環境の為に道路特定財源は必要」などと法螺を吹きまくったりの状況をみると、そのことの重要性を僕は非常に強く感じるわけだけれども、どうやら世の中には「候補者間の批判は許されず、かつ候補者は自分に都合の良いことばかり主張する」選挙こそが「理想」と言い出す、有権者の眼力をもはや「超能力レベル」まで過大評価しかつそれを前提に何事かを語ろうとする人がいるようで。

ちなみに「ネガティヴキャンペーンは戦略的に良くない」という議論は、ほぼ実証不可能。実際それで勝利した(正確には、ネガティヴキャンペーンを張った陣営が勝った)例は沢山ある。近いところでは、あの小泉の郵政選挙でも「郵政民営化反対派は既得権益と繋がった抵抗勢力」とレッテルを張るというネガティヴキャンペーンが行われたし、少し遡れば東京都知事選「美濃部vs.石原」でのものも有名。にわか「選挙参謀」面するのは自由だけど、説得力ゼロ。

(追記)
選挙後

「(発行しないという)それまでのコメントは政治的な戦術もある」

(橋下氏は府債を発行しない公約を掲げて知事選を戦った。報道陣から公約の重みを指摘されると)「あらゆることを知ったうえでしか発言できないのであれば、今までの行政と変わりがない」

選挙中】 

(「府民所得50万円アップ」という政策について)「根拠を示していない。ビジネスも経済もまったく知らない学者あがりを大阪府のトップにしていいのか」
「府民所得50万円アップ」→「府債を発行しない」・「ビジネスも経済も」→「府の財政も」・「学者あがり」→「タレントあがり」に変えてみましょう。面白いものが見えてきます。「熊谷氏の政策にはリアリティがまるでない」と批判していた人たちよ、さあ存分に蜂起せよ!

(再追記)

(「府民所得50万円アップ」という政策について)「根拠を示していない。ビジネスも経済もまったく知らない学者あがりを大阪府のトップにしていいのか」

毎日新聞『橋下大阪府知事:教育公約を見直し…「机上の空論だった」』
大阪府の橋下徹知事は13日、就任後初の定例記者会見で、知事選の公約として掲げた習熟度別クラス編成導入や府立高校の学区制撤廃について、「机上の空論だった」と述べ、根本的に見直すことを表明した。
「府民所得50万円アップ」→「習熟度別クラス編成導入(学区制撤廃)」・「ビジネスも経済も」→「教育も」・「学者あがり」→「タレントあがり」に変えてみましょう。面白いものが見えてきます…というかそもそも彼が「知っている」と胸を張って言えるのは一体何なのでしょうか?専門分野の一つであるはずの憲法学についても頼りないようですけれども。

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Comment (2)

away:

Dead Letterさん、こんにちは。
ご無沙汰しています。
今回のエントリを読んで啓発されましたので、
勝手ながらトラックバックさせていただきました。
どうぞご了承くださいませ。

deadletter:

awayさん。ご無沙汰してます。コメント&言及どうもありがとうございます。本当ならばawayさんの当該Entryにてコメントさせて頂くのが筋なのかもしれませんが…

http://www.mypress.jp/v2_writers/song_of_wind/story/?story_id=1707546
>我々が(もし選挙を通して自分たちの望む社会の建設を望むのであれば)『候補者が公約で言っていること』をベースに考える以上に『候補者が行いそうなこと、候補者が行いそうもないこと』をいろいろな角度から勘案推理して投票態度を決めねばならない、ということだ。

僕が言いたいのはまさにそういうことです。もちろん現代においては各種メディアの存在、或いは行政においても「パブリックコメントの募集」・「住民投票」などの様々な「補完的」システムがあり、自由委任の原則と言っても代表者に完全に白紙委任されているわけではありません。とは言えそれらもどのくらい考慮に入れるかは代表者に任されているので、「(原理的にではなく)事実上白紙委任ではない」くらいの意味ですけれども。

橋下は立候補前から「(2万パーセントでないという発言について)ウソと言えばウソだった」・「ウソをつけない奴は政治家と弁護士にはなれない」とか言っているわけで、当選後の言動はその行動原理に沿っているだけとも言えますよね。

彼が公約を次々に翻しているのを見ると彼はこの自由委任の原則を文字通りに実践しているように見えます。「公約(政策)が選ばれたわけではない。橋下徹という人間が選ばれたのだ」というように。ちなみに「年金の名寄せ」の問題であの福田は「公約したっけ?」ととぼけてましたよね。つまり彼でさえ公約と言うものの重要性を一応は認めているから、「そもそも公約していない」と言うしかなかった。橋下は違いますね。公約したことを堂々と認めながら恥じることなく反故にする。

そしてこれは僕の個人的な主観なのですが、今のところ大阪府民もなんとなくそれを受け入れているように見えるんですね。「彼なら何かやってくれる」という漠然としたイメージのようなものこそが重要なのであって、「何か」に代入されるものは特にイメージされていないというか。

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