「ホワイトカラーエグゼンプション」提案時の2ちゃんねらーの反応
→http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/892743.html
→http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1029469.html
行政の長の「超過勤務」を正当化する言い草に反論する職員への2ちゃんねらーの反応
→http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1102983.html
いや、興味深いです。かたや、「サービス残業に対する理解がまるでない」ことに非難が集中しているのに、かたや「サービス残業するのは能率が悪いから」ですか。もちろん同じ人が言っているわけではないのでしょうけど、同じ話なのに空気が「正反対」なのはどう理解したらいいのでしょうか。単に公務員が憎たらしい=叩ければ理屈は何でもいいということなのでしょうか。
opemuさんの嘆きももっともです。「公務員も(職場が違うだけで)同じ労働者である」という感覚が掘り崩されているのかもしれませんね。けれどもこれは「公務員叩き」だけに留まる問題ではありません。例えば「正規雇用/非正規雇用」の間にも同じ問題は存在します。そうやって「敢えて分断を望む」ことで得するのは、決して「同じ労働者たる」彼ら自身ではないと思うのですけれども。
僕としては例えば「志位GJ!」の声といったものをとにもかくにも一つの流れにしていくことの方が大事なのではと思わずにはいられません。
差別される側からの謝辞や情報提供だけでなく、矛盾に直面する経営者、管理職、正社員からも好意的な反響が寄せられているという。
僕たちはもちろん「一つ」ではありません。けれども同時に「ある観点において」、「ある文脈において」ならば「一つ」になることが出来ます。
例えば「性別による差別」を考えてみましょう。男性と女性は生物学的に全く異なるカテゴリーです。けれども「同じに扱われるべき文脈で異なった扱いをされること」が社会的に否とされることでその「異なる」という「区別」は「差別」になるのです。例えば企業が労働者を雇用する際、給与体系を構築する際に「その区別を持ち込む」ことは「差別」とされます。「女性と男性は同じ労働者として扱われるべき」という社会的な合意が存在するからです(100年前はそうではありませんでした)。差別は自然的な事実ではありません。僕たちがこの世界をどのように認識し、分類し、そのカテゴリーをどのように扱うかという態度によって差別は「事実となる」のです。
「(私とあなたは違うのはもちろんだが)この文脈において私とあなたは同じとして扱われるべき」これが「社会的合意」の獲得を目指さんとするあらゆる運動の原点です。「違いを踏まえつつ、同じであると主張する」ことは確かに困難ですが、「文脈」を見失い、「誰が(何が)私とあなたを違うものとして扱っているのか」を見失えば「流れ」は決して作られることはありません。
(追記)
かの女性職員が「サヨク」であるとして、バッシングされているようです。これまた非常に興味深いですね。だって労働問題を取り上げて「2ちゃんねる」で株を上げた志位氏はそもそも「共産党」の委員長なわけですから。なるほど彼女が「アカ」だったとしましょう。So what?「アカ」は労働問題に言及してはいけないのですか?とすれば、その「頭目」たる志位氏に関してはなぜ「GJ」なのでしょうか。
(関連Entry)
「労働・モラリズム・分割統治」
「宮台真司の差別論」

