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2008年04月26日

「自分にとっての真実」について

Thinking

某高裁での某事件に対する判決に関して、現時点で僕が得られた情報の範囲内での感想。

判決直後に接見した弁護士の「会見で伝えたいことはあるか」との問に被告人は「自分にとっての真実を述べた」と答えたという。

「真実」ではなく「自分にとっての真実」という謙抑的な言葉を彼が選んだという点にあえて注目してみたい(それは「真実を語れ」と彼に迫った側の方が、ややもすればその謙抑性を無自覚に踏み超えていたのとは対照的であった)。そもそも「真実」など本当は誰にも、本人にすらも分からないのではないだろうか。仮に今過去へ戻ることの出来る装置・或いは過去に生じた出来事を忠実に再現する装置が発明されたとしよう。しかしあらゆる出来事には複数の記述が存在する(哲学的にはかなり荒っぽい言い方であることはお断りしておく)。

ex.)以下の記述は全て同一の出来事を指示し得る
「スミスはスケートボードに乗っていた」
「スミスは遊んでいた」
「青白い顔をしたブロンドの男は急いで逃げた」

過去の出来事なるものが忠実に再現されたところで、それを解釈するに当たって複数の記述のうちどれが妥当であるのかを予め決定するようなアルゴリズムは存在しない。とすれば原理的には客観的な「真実」は存在せず、存在するのは「各人にとっての真実」だけだとも言いうる。そして実際僕達はおそらくほとんどの場合について「自分にとっての真実のみ」で生きているのである。

もちろん例外的なケース、すなわちある出来事に対して相容れない二つの解釈がぶつかり、そのどちらかを暫定的に決定しなければならない、そういう場面は存在する。その場の一つが「裁判」ということだろう。裁判とは対立する二つの解釈のどちらが裁判官(=社会・共同体の表象)の信を得るかを競い合うものである。一方の解釈が裁判官の信を得られなかったとしても、「自分にとっての真実」までが否定されるわけではない。「社会的には…と見做される」というだけの話である。

被告人が自らの命と「自分にとっての真実」を天秤にかけ後者を選んだことについて、僕からは何も言うべきことはない。ちなみにおそらくかの被害者遺族においてはその倫理的な価値について「積極的に」認めざるを得ないだろうと思う。彼は反省し(=事件を振り返り)その上で嘘をつくことを拒否したのだから。

彼は悔い改めて自ら犯した罪を反省して納得して、胸を張って死刑を受け入れることに私は意味があると思っています。もし彼が嘘をついてこの法廷を戦って、負けて死刑が出たときに、彼の人生は何だったのかと思います。(07.6.28
激しく対立していたはずの二人が図らずも「人間にはただ生きるよりも大切な価値があり、それは嘘をつかないということだ」という同じ地点・認識に到達していたことが僕には非常に印象的だった。

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