ここに一組の夫婦がいる。彼らは浮気をしてもいいということを暗黙の内に認め合っている。もしいきなり夫が、進行中の浮気について赤裸々に告白したら、当然ながら妻はパニックに陥るだろう。「もしただの浮気だったら、どうしてわざわざ私に話すの?ただの浮気じゃないんでしょ?」何かについて公に報告するという行為は、中立的ではありえない。(…中略…)秘密の情事についてたんに何も話さないことと、それについて何も話さないと公言することとの間には大きな違いがある(「いいかい、ぼくには人間関係すべてを洗いざらい君に話さない権利がある。ぼくの人生には、きみにはまったく関係のない部分があるんだから」)。後者の場合、暗黙の約束が明るみに出たとき、かならずやこの宣言そのものが更なる攻撃的なメッセージを発することになる。
学問の世界で、同僚の話がつまらなかったり退屈だったりしたときの、礼儀正しい反応の仕方は「面白かった」と言うことである。だからもし私が同僚に向かって正直に「退屈でつまらなかった」と言ったとしたら、当然ながら彼は驚いて言うだろう。「でも、もし退屈でつまらないと思ったのなら、面白かったといえばいいじゃないか」。不幸な同僚は正しく見抜いたのだ。-この率直な言明には何かそれ以上のものが含まれている。そこには自分の論文の質に関するコメントだけでなく、自分の人格そのものに対する攻撃が含まれているにちがいない、と。
同様に「デマであると認識していること」と「デマであると公言すること」はまったく異なっている。上記のS.ジジェクに倣って考えてみよう。

交際している女性がデートの待ち合わせの時間であるはずの午前9時に5分遅れてきた時、彼女がその言い訳として「ごめんなさい。低血圧で朝が弱くて起きられなかったの」と言ったとしよう。その時あなたが「低血圧が原因で朝起きられない、というのは医学的にみて何の根拠もない(=デマである)」と返答したとすれば、彼女は「つまりは彼は『私を許さない』というメッセージを発しているのだ」と考えることだろう。
合コンの席で血液型による性格診断で他の出席者が盛り上がっている最中、話が自分に振られたとき、「血液型による性格診断は何の科学的根拠もない(=デマである)」と述べたとしたら、「つまるところこの人はこの席が取るに足らないくだらないものであると主張している」と受け取られることだろう。
繰り返すが、「科学的に間違っている」と認識していることと、それを公言することの間には大きな違いがあり、それは「デマをデマと指摘しただけ」などといった「中立的な行為」ではありえない。そして僕たちはそのことを「通常よく弁えている」のである(たった5分の遅れを低血圧のせいにする彼女や合コンで血液型の話で盛り上がる人たちに、あくまで「それはデマである」と主張すればどのような結果を齎すか、僕たちは「通常よく分かっている」)。
先だって「ある評論家が歴史修正主義に実質的に加担した」と批判された論争において、彼を擁護しようとした側のある人間が「東京大空襲はおろか昨日の事さえもあったかどうかは定かですらないはずだ(確かな根拠はないはずだ)」→従って「南京事件はあったと断言することは自分には出来ない」旨を主張した。
なるほど彼自身「十分前世界創造論者」もしくは「懐疑主義者」であるというわけだ。が、彼がすべての事実命題について「かどうかはわからない」などとコミットし続けているということがありえない以上、本当の問題は、「何故その文脈であなたは自身が懐疑主義者であることを強調するのか」ということなのである。そして「南京事件に関して、自分は懐疑主義者であるので、あったかなかったかについてはわからないと言わざるをえない」と述べることが、通常どのような(政治的)効果を齎すか、やはり僕たちは「通常よく分かっているはず」なのである。
僕が「南京事件は存在した(南京事件否定論はデマである)」、「従軍慰安婦問題について日本は責任がある(従軍慰安婦否定論はデマである)」と公言するとすれば、改正国籍法批判論は悪質なデマであると公言するとすれば、或いは光市母子殺害事件の被告人の弁護団は懲戒請求に値するという批判はデマであると公言するとすれば(そのいくつかについてはこれまで実際にしているわけだが)それはたんに「デマだから」ではありえない。そのコミットメントは、「私はそれを有害だと見做す」という、「より攻撃的」・「政治的」主張を意味するのだ。

