Main

Book Archive

2005年07月28日

宮台真司の差別論

宮台真司『まぼろしの郊外』に確か、「成熟社会の差別論」という、差別をテーマにした文章が収められていた(ちなみに僕は宮台さんの真面目な読者とは到底言えなくて、『権力の予期理論』とこの『まぼろしの郊外』以外はちゃんと最後まで読んだと胸を張って言えるものは無いです)。とても面白かったので紹介したいんだけど、本が手許に今無いので、記憶を頼りに再構成してみる(もし持っている方で、僕の要約に異論があるという方は、ぜひご指摘頂戴したく)。

まぼろしの郊外社会学的に言えば「差別」というのは、「わいせつ」と類似の概念で社会的文脈の関数なのだという。例えば「わいせつ」とは、「非性的であるべき文脈」で性的(行為を含む)露出がなされる時に喚起される否定的感情であって、性的行為そのものがすなわち「わいせつ」なのではない。

同様に「差別」の場合でも、単に「AとBは異なる」というようにカテゴライズする、差異を認識する行為=区別が、すなわち「差別」となるわけではない。ひとは、世界を様々にカテゴライズし、そのカテゴリー毎に予期を持ち、そして反応している。けれどもそこに、「AもBも同じ~ではないか」という上位カテゴリー、包括的カテゴリーでの括りが為される、或いはまた包括的カテゴリーに基づいて予期が持たれ、行為されるべきだ、という告発(社会的文脈)があると「差別」が成立する。

差異を包括的カテゴリーで括り告発すれば、あらゆる区別は差別となりうる。だから合理的区別と「差別」の線引きは常に非実体的根拠で、暫定的に為されるしかない。それまでは「差別」とされていなかったとしても、「同じものとして扱われるべき」という告発が共有されれば、区別=「差別」なのだ。またこれらのことから、「差別」は「原理的には」なくならないことが帰結する。

「(男)と(女)は違う」「〈男〉も〈女)も同じ〈日本人〉ではないか」。「それでは(日本人)と〈国籍を持たない非日本人〉なら区別してよいか」、「いや同じ〈日本に住む人間)じゃないか」、「(非居住者)ならどうか」、「いや同じ〈東洋人〉ではないか」等々。カテゴライズは常に「差別」に転化しうる。

ところで、宮台さんの差別論が興味深いのは、以上の原理的な議論ではなく、寧ろその先だ。カテゴリーの中には「中立的カテゴリー」とそうでない「アイデンティティを構成してしまうようなカテゴリー」がある。確か、宮台さんは「てんかん」の例を出していたはずだけど、「てんかん」というカテゴリーをアイデンティティのよりどころにする人はいない。だから、(てんかんを持病に持つ人)/〈そうでない人〉で、日常生活を送る能力においてなんら違いが無いことが証明されれば、異なった役割期待・扱いは「差別」である、と告発できる。

このように容易に相対化できる「中立的カテゴリー」と違って、相対化出来ないカテゴリーが存在する。例えば分かりやすい例で言うと(女)とか(在日外国人)とか(黒人)とかいったものがそれだ。それは、アイデンティティを構成してしまうことがありうる故に、それらは相対化され、包括的カテゴリーに同化・吸収されることを拒むケースが生じる。被差別者(被差別感を持つ人)に見られる「同じなんだけど、同じじゃない」というまさに「微妙な」感受性はここに由来する。また「差別」と闘う共同体の歴史そのものが、構成員のアイデンティティを構成してしまうことがありうる。従って彼らへの「差別」は存在し続けても、または霧散しても問題が生じる。

このカテゴリーとアイデンティティと差別の問題は、成熟化社会ではより一般化しうる、また現実にそうなりつつある(僕が思うに、例えば「オタク」とかにも多分当てはまりうるのでは?)ので、各「カテゴリー」間・各共同体の間をどう取り結ぶのか、それらが一つの社会でいかに共生しうるかという「最適化戦略」こそが、差別論において論じられなければならない。

というわけで宮台さんはいまや誰もが「差別」を論じるべきだ、と締めくくる。「在日/日本人」は合理的区別か否か、北朝鮮を批判すればそれは差別か否か、といったことは僕には非常に眠たい議論なわけですが、まあこういう差別論もあるということで、ひとつ。

2004年09月11日

暴力の哲学

ロシアで起きた学校占拠事件のことを考えながら、酒井隆史「暴力の哲学」をじっくりと読み返す。あまり読みやすい本とは言いがたい(特に後半部分)んだけど、思考のヒントになりそうな要素が沢山詰まった意欲作だと思う。機会があったらぜひお読み下さい。

とは言え、僕もまだこの本について何かまとまったことを言えるレベルには到っていないのが正直なところなので、ここでは著者の問題意識が表れている部分を引用するだけにとりあえずは留めたい。

「暴力はいけません」というモラルなら、だれでもいえるし、実際、あふれています。…(中略)…「暴力はいけません」という言葉は、決して人の暴力に対する許しがたさの感覚を養っていることを狙ったものではないと思うのです。…(中略)…暴力はいけない。だから、暴力を憎むのだ。暴力をふるうものを憎むのだ。暴力をふるうものには暴力を ― このような言表の連鎖を、「暴力はいけません」という言表は決して排除するものではない。
このようなモラルは、好戦的な、しばしば残忍ですらある暴力を退ける要素をはらんでいるわけでは決してない。むしろそれを濃密にはらむことさえあるのです。いま流通するようなかたちでのこのようなお説教的な言表がもくろんでいることは、この世界に満ちている様々な力を感受し腑分けする能力をつぶすことです。そのことによって人は暴力に対する感覚を磨耗されているのです。
暴力の哲学アメリカやイスラエルによる大量破壊兵器を使った虐殺も、パレスチナの子供が戦車に向かって石を投げる行為も、全て同じ「暴力」という名で括ってしまって良いのだろうか。力の「質」を見極めるためにどのような「基準線」*1を引きうるのか。

チェチェン、パレスチナ、イラクなどで現象している強大な権力による一方的な抑圧・切り捨てに対して、「弱者」がこの世界に占める時・空間を確保する為に、いったい「抵抗・レジスタンス」という行為はいかに定位されるべきなのか(いかにありうるのか)。

*1 ちなみに著者はこの言い方に賛成しないと思う。著者は何らかの形で実体化・固定化された基準線に従って「正しい暴力」と「悪い暴力」を教条的に(アメリカ=正義(自由と民主主義の体現者)→故にアメリカの持つ兵器は正しい?)区別すること自体を批判している。「このような発想は、そもそも暴力を腑分けしているようで、見極める能力の欠如があらわれています。」

2004年01月31日

線を引くことの意味

近所のブックオフにて

自由主義の再検討』(藤原保信)
マックスウェルの悪魔』(都筑卓司)
10歳からの量子論』(都筑卓司)

を購入。これらは背表紙を見て即買いしたので、家に帰って開いてみて初めて『自由主義の再検討』には赤で線などの書き込みがされてあるのを知り、ちょっと落ち込む。いや「落ち込む」というのはちょっと言い過ぎかな。「読む気が少し萎えた」くらいか。線が引いてあると妙に気になって読みづらいので。

僕は基本的には本を読む時には線を引かない。というのは「二度以上読み返す本」というのは割合的にはごく僅かしかないからだ。読み返さない本に線を引いたり書き込みしたりして目印をつける必要は無い。僕が読書に割ける時間は限られているのだから、そんなのは時間の無駄なのだ。

「線引き派」は僕の周りにもいるんだけど、改めて彼に聞いてみたらやっぱり「二度以上読む本はほんの一部」だと言っていた。なら、一度目は普通に読んで、もう一度読み返したくなった本にだけ再読する際に線を引けばいいのに、とも思うんだけど、それだと「読んだ気がしない」ということらしい。どうもそこら辺の心理が僕には理解しがたいんだよなあ。

ちなみに『自由主義の再検討』ですが、書き込みは最初の数ページにあっただけで、あとは真っ白でした。どうやら「再読」どころか、「通読」すらしてくれなかったようだな、おまえさんの前の持ち主は。

About Book

ブログ「Dead Letter Blog」のカテゴリ「Book」に投稿されたすべてのエントリーのアーカイブのページです。新しいものから順番に並んでいます。

次のカテゴリはDiaryです。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。