Main

Iraq Archive

2004年11月10日

ファルージャ

ファルージャ市民からの手紙(「Falluja, April 2004 - the book」)
ファルージャと戦争の現実(「Falluja, April 2004 - the book」)
囚われのファルージャ(「バグダッド市民からの緊急メール」)

テロリストたち(「Baghdad Burning」)

イラクの人々はファルージャから逃げてくる人たちを英雄のように迎えている。自分たちの家の部屋を空けて彼らを泊め、食べ物やお金や救急物資を寄付している。イラクではだれもがアブ・ムサブ・ザルカウィがファルージャにいないと知っている。私たちの知る限り、彼はどこにもいない。彼は大量破壊兵器のようだ―大量破壊兵器を引き渡せ、さもなくば攻撃するぞ。さて攻撃が行われてみたら、どこにも兵器がなかったことが明らかになった。ザルカウィに関しても同じことになるだろう。次々と登場する政治家の誰かがザルカウィに言及するたびに、私たちは笑っている。彼は大量破壊兵器よりさらに都合がいい。なにしろ足があるから。ファルージャでの大失敗にけりがついたら、ザルカウィはタイミングよくイランやシリア、ひょっとしたら北朝鮮にでも移動することだろう。

これまで散々アメリカのいいかげんな情報に振り回されてきたはずの小泉は、今回もまた、自らでは確かめようもない(確かめる気すらないとは思うが)アメリカの言い分を一方的に肯定し、アメリカによる「テロ」にお墨付きを与えた。ブッシュの犬め。恥を知れ。

(追記1)
Falluja, April 2004 - the book
Raed in the Middle(日本語版)」 を改めてクリップ。必読。

(追記2)
シバレイさんによるEntry「ファルージャ武装勢力指導者との対話」をクリップ。一体、僕たちは誰の声に耳を傾けるべきなのか。(それにしても読売新聞は肝心のファルージャの有力指導者の名前すら正確に報道できないんですね。)

2004年11月03日

政治ゲームの彼岸

稲葉さんのサイトで見つけた、小泉義之氏のインタビュー('97.7.20)。

「他者と我々」という問題設定をする人は、国民や民族をユニットにしてしか思考していない。そんな思考法を捨てなければ、死者を弔うことにはならない。
たとえば先日、イスラエルとパレスチナで戦闘があって、パレスチナ人が何人死んで、イスラエル人が何人死んだという把握の仕方がされる。卑しい思考法です。直ちにやめるべきです。ぼくは、誰が死んだのか、誰が殺されたのか、そして誰が殺したのか、名前を知りたい。戦争の問題でも同じです。誰が死んだのかということだけが大事であって、誰が引き金をひいたのか、それを拒めなかったなら誰が強制したのかということにしか関心はない。何千とか何万とかの数字の問題ではないし、それを日本人とか中国人とかくくることが問題なのではない。従軍慰安婦をめぐっても、誰か特定の男たちとの関係の問題であって、まさにそこで決着をつけなければならない。

とにかく、死者の名前を思い起こさないような論争は、およそ無意味な無駄話にしか見えない。たしかに現状における国家的、政治的責任の取り方を考えると、国家や民族というユニットで考えることになるし、それ以外に救済の道はないように見える。一応、それならもっときちんとやれとしか言いようがないけれども、やはり腹をくくってそんな道は捨てなければならない。実際特定の人間が特定の人間によって殺されたということから出発し直すと、最初からアプリオリに国家や民族をユニットにする思考法はまったく欺瞞的であることがわかるし、そんな思考法こそが戦争を引き起こしているとわかってくる。そんな思想は捨ててもらわないと困る。捨ててもらわないと何も始まらない。

今回の殺人犯たちは「ザルカウィ一派 or アルカイダ」=「アメリカに敵対するもの(の表象)」の看板を背負わされ、殺された香田証生さんは、犯人によって「アメリカを支持する日本人」という看板を、また国内的には「ニート」、「テロリストの犠牲者」、「日本政府のアメリカ追随政策の犠牲者」、というように様々な陣営から様々な看板を背負わされた。そういう思考法をアプリオリなものとする中で、政治的陣取りゲームが駆動しているのだ。

だが、どれが正しい看板か、どの看板とどの看板が対立(あるいは協調)すべきなのか、に果たして意味があるのか。

香田さんはこういう思考法、看板・党派性いっさいを虚構として拒否したからこそ(疑ったからこそ)、「戦争は見てみないと語れないでしょう」とイラクに出かけたのではないか。だとすれば僕はそういう衝動を少なくとも理解はできる。

現地を見ることなく(現地特派員を全て引き上げ)、自らの拠って立つ党派性からオートマティックに帰結する紋切り型のレトリックや言説を弄び*1、政治ゲームを繰り広げている既存の大手メディアに、彼を「不可解」だと嘲る資格はない。それは彼らがいかに特定の死者に無関心で、なおかつ政治ゲームに毒されているか(そのことしか頭に無いか)の証左でしかない。

もちろん「どの看板も背負わない」というのも一つの政治的ポジションであり、政治ゲームの内部から脱しえてはいない。けれども既存の政治ゲームに現を抜かし、一度でもそれを疑った事の無い人間にそれを言い、貶める資格は無い。もちろん僕を含めて。

*1例えばシバレイさんのEntryを参照。

2004年11月01日

いまだけは。

香田さんが拘束されてすぐ、僕は中東のメディアへメールを送った。

「彼は自衛隊とも日本政府とも関係ない。ただの旅行者だ。そう報道して犯人グループにアピールをして欲しい。」

だから、僕は今だけは自衛隊撤退を言わない。彼の死に絡めて政治的発言をしたくないからだ。政府とも、様々な政治的思惑とも無縁だったであろう人(本人もおそらくそう必死に犯人グループにアピールしただろう)の死は、政治性と切り離して弔ってあげるべきだと思うからだ。もう彼を政治に巻き込むのは終わりにしよう。政治に殺された彼を、政治から解放してあげよう。

2004年10月27日

「愚かさ」は死に値しない

イラクで再び日本人が誘拐された。

「愚かさ」は好ましいことではないけれども、それ自体は罪ではない。ましてや、死をもって償わせるべきものではない。政府は、邦人保護業務の遂行に当たっては、当該邦人が「愚か」であるかどうかを基準にして差別せず、全力で臨まなければならない。

読売や産経はまた懲りもせず被害者バッシングを始めたようだが、彼らはいつから「テロの擁護」者に変わったのだろう?

甘いおやつさんが述べているように、いつもなら、何の罪もない被害者に原因を求めることで「テロリスト」の擁護をしてはならない、と口を極めて「テロリスト」を罵るのに、今回は「テロリスト」より香田さんの方が悪いと言わんばかりだ。どうやら彼らの基準では、自分探しの旅をする人間は「テロリスト」よりも罪が重いらしい。とりあえず、その論調を続ける以上、彼らに「テロ」を非難する資格が与えられる事はない、ということだけは確かだ。

今回もまた小泉は「自衛隊は撤退しない」と既に宣言をしてしまったようだ。犯人グループがイスラム聖職者協会も手を焼くほどの強硬派ということが伝えられている中、極めて軽率な発言と言わざるを得ない。結論そのものは変えられなくとも、とりあえず曖昧にぼかしておくことで、犯人との交渉の余地が生まれるかもしれない。にもかかわらず、早々と結論を断定し宣言してしまったということは、人質の安全確保を無視した暴挙だ。

小泉は、「人質を殺させること」=「テロに屈しないこと(毅然とした態度を取ること?)」だとでも、勘違いしているのではないだろうか。

2004年09月14日

友情に恵まれない老人

イラク大量破壊兵器 発見断念を公式表明

これで大量破壊兵器が見つかる可能性はなくなった。「今でも私はあると思っている」「(ブッシュにだまされたとは)全く思っていない」とブッシュを信じ、ひとり孤独に大量破壊兵器捜査チームの捜索を注視し、発見の報を待ち焦がれていた哀れなご老人に、お教えしてさし上げなさい、マスコミ諸君。「あなたの信じていた友情は裏切られた」と。

そして国会の役目は、政府にイラク攻撃支持を撤回させること、だ(我ながらしつこいとは思うけど、再度小泉の発言引いときます)。

問題は、大量破壊兵器を保有するイラクの脅威に私たちがどう対峙するかです。イラクは12年間、国連の決議を無視し、大量破壊兵器の破棄をしてこなかったのです。
フセイン政権がこれらの兵器を廃棄する意思がないことが明らかになった以上、これを放置するわけにはいきません。このアメリカの決断を支持する以外に解決の途はないと思います。
これが、支持の理由です。(小泉メールマガジン87号
(追記) ちなみに「イラクは立証責任があったのに果たしてこなかった」だから「攻撃は正当化される」という近ごろ小泉がよく用いている論法については、恥ずかしながら僕のこの記事阿修羅掲示板のこの記事を御覧下さい。

あの時の国連を巻き込んでの争点は、「査察続行か否か、査察が無駄と言うならその根拠は何か」です。だから米・英にその根拠の提示が求められたのです。従って、今更「そもそも米・英側に証拠を提出する義務なんて無かった。「無い」ということを証明しなかったフセインが悪いのだ」と主張するのは論理のスリカエもいいところなのです。

小泉の答弁がインチキなのは最近に始まったことではないので、いまさら驚くべきことではありませんが、彼を追及すべき国会議員まで、こういった流れをすっかり忘れている、という健忘症ぶりには呆れるばかりです。しっかりせーや。

2004年08月23日

「華氏911」のインパクト

「華氏911」が公開されたようだ。僕はまだ観てはいないのだけれども、この映画は「フセイン政権と大量破壊兵器の関連性はない」といったことを主張しているらしい。しかし、映画の内容については「日本人としては既に知っている情報ばかり(新しい情報は何もない)」、「情報操作されてきたアメリカでは強烈なインパクトがあるだろう(日本ではそれほどでもない)」というような評価がされているのをよく見かける。

どうしてそのような評価が出てくるのかとてもいぶかしく思う。

例えば日本政府=小泉内閣は「フセイン政権と大量破壊兵器の関連性」を一度たりとも否定したことはない。ちなみにアメリカ政府は最近になって「フセイン政権がWMDを保有していなかったとしても、イラク攻撃は正当だった」という主張を少しづつし始めている。

けれども小泉純一郎はWMDについての「フセイン大統領が見つかっていないから、イラクにフセイン大統領が存在していなかったと言えますか」という国会答弁を、その後一語たりとも修正していない。

「イラクが大量破壊兵器を保有していなかったということは断定できないと思います、いまだに。…(中略)…私はいまだに、監視グループが捜査を続行していく必要があるという発言のとおり、日本政府としてもこの捜査を見守り、注視していく必要があると思っております。ないとは断定できる状況にあるとは思っておりません。」(2004年2月5日
「(だまされたとは)全く思っていません。私はないとは断定できませんね。今でも私はあると思っていますよ」(2004年3月19日

つまり、「華氏911」の内容は、少なくとも「WMDはいまだ探索中であり、無いとは断定できない」と主張する小泉内閣にとっては驚くべきもの、ということになる。小泉はWMDの問題を依然としてイラク攻撃の大義に掲げ続けているからだ。

「華氏911」が含む情報が多くの日本人にとって「既知・常識」のものであるという評論を行ったマスメディアは、何故小泉に「WMDとフセインは無関連ですよ」と教えてあげないのだろうか。

ああなるほど、こういうことか。「この国では一般市民の誰でも知っている外交上極めて重要な情報を、外交上の施策を決める政府だけが知らない」。そしてそれが「当然」の事として是認される国なわけだ。

(参考リンク)小泉メールマガジン87号

2004年07月14日

売国奴たち

イラクで取材を続けるジャーナリスト志葉玲氏の「シバレイのBlog」では連日必読の更新が続いている。

志葉氏は先日よりサマワに入られたようで、「結局、他の占領軍と同じじゃないか。何もしないのなら、もう帰ってほしい」という住民の声や「日本から来る企業やNGO、医者や技術者など、本当にイラク復興のために来る民間人となら、良好な関係を作れると思う」というサドル派サマワ支部幹部の声を届けてくれている。

数日前に報道された「日本にはがっかり」というムサンナ州知事の談話も合わせて考えれば、現場では陸自の活動はやはり殆んど評価されていない、というのが実態なのだろう。

結局「イラク人から感謝されているからその活動を継続する為に多国籍軍に参加する」というのは真っ赤なウソだということだ。もちろん「日本の自衛隊は人道復興支援だけをやる」というのもウソ(空自はアメリカ兵輸送といった軍事的支援を行っている)。

こういうウソを平気でつき続けるどこぞの党の「ウソつき」たちこそ、まさに、これまで日本の民間人たちがイラクで築きあげてきた「日本人に対する敬意」という財産に「ただ乗り」し、無駄に食いつぶすだけの「売国奴」の名に相応しい。

2004年05月15日

イラク人質事件関連リンク

イラク人質事件関連でその後僕の気になったところをいくつかクリップ。

江川紹子さん「批判にお答えします

松沢呉一さん
女子供は社会のもの」(キャッシュ)
全文・読者からの反論」(キャッシュ)
全文・読者からの反論2」(キャッシュ)

それから「自己責任論」と同じように噴出した「迷惑論」については
知のWebマガジン[en]2003年8月号のdirector's note
他人(ヒト)に迷惑をかけない生き方は正しいか

が参考になるかも。
最近少し忙しくて更新する暇があんまり取れないので、リンクだけで誤魔化してみた。

2004年04月16日

「自力救済型」社会

江川紹子さんのイラク人質問題についてのコメント
「甘いおやつ」のEntry

例えば、夜の歌舞伎町で肌を露出した格好をしていた女性がレイプされかかるのを見かけたとする。その時「時と場所を考えたファッションをしないのは危機管理意識が甘いせいだ」ということでその女性は見捨てられるべきなのだろうか。例えば、「道路で遊んではいけませんよ」と注意は受けていたはずの子供が道路で遊んで車にはねられたとする。「何度も注意はされていたはずだ」といって「自己責任だから、この子供を助けるのには保険はききません(又は、自分で手術しろ)」と救急隊員から言われたとしたら、どうだろうか。

自力救済型社会においては、多種多様なリスク(顕在的なもの、潜在的なものを両方を含む)については、全て個々人が自己責任で対応しなければならない。けれどもこのような社会で生きていけるのは、自分の権利を暴力によって実現できる人間(例えばボブ・サップ)、なんでも金で解決できるほどの財力を持つ人間(例えばビル・ゲイツ)だけだ。僕を含め大多数の財力も体力も乏しい人間にとっては、不平等極まりない世界と言える。だからこそ、そういった問題を解決する為に「国家」が要請されたのだ(というのはもちろん言い過ぎなのだけれども、そういう部分は確実にある)。

今回「自己責任だ」とあたり構わず怒鳴り散らしたり、イラクで人質になった三人の家族に嫌がらせをした人たちは、一体ビル・ゲイツやボブ・サップのような「強者」の側にいる人たちなのだろうか。「amai_oyatsu」さんが言うように、自由が丘でも田園調布でも成城でもいいんだけど、そういうところに住み、自力救済型社会を生き抜く能力のある人たちは、逆にそんな「嫌がらせ」をすることに何の興味も意味も見出さなかったんじゃないか。

もちろんここで「弱者」と「強者」の差異をことさらに強調したいわけでもないし、「弱者であることを自覚し、弱者として団結して、社会の構造的な不平等にこそ対峙すべきだ」などという少し前の労働運動家みたいなことを言うつもりも毛頭ない。

そうではなくて、もっとささやかなこと、僕たちが自由に安心して生きるにはある前提が必要で、国家にはその前提を守り通す義務があるということ、誰もがその前提の上で生きる権利があること、そういったことくらいにはせめて自覚的であって欲しいということ、僕が言いたいのはそういうことだ。

(追記1)
Videonewsの神保さんのBlogのEntryをクリップ。

僕の記憶が確かなら、ちょっと前に「マル激」で宮台さんが「Blog」のことを喋った時、神保さんは「初耳」みたいな感じだったので、Blogを知ったこと自体は、割と最近のことなのではないか、と推察する。でも今回のような事件が起きた時に、すかさず自分でBlogを立ち上げてしまうそのフットワークの軽さはさすが、ですね。

(追記2)
もう一つリンク紹介。
「遭難救助と同じなので救出費用を請求せよ」という議論について。
「しつこく自己責任にこだわる(2)」(逃避日記)
ちなみにその前のEntry「しつこく自己責任にこだわる」もオススメ。

(追記3)
「またかよ!」のリンク紹介ですが、そう言わずにオススメなのでぜひ。
(それでもこれからするリンク紹介は別のEntryでやりたいと思います。キリないし。)
フリーライターの松沢呉一さんのサイト内のコラム
黒子の部屋687 自業自得って…」をクリップ(キャッシュ)

2004年04月13日

自己責任?

「自己責任」、「自業自得」と言い立てる人たちは、一体何を言いたいのだろうか?もしかして、「危険を承知していったんだから、政府は救出しなくていい」とか、そこまでいかなくとも「救出してやることを、ありがたく思え」とか、そんなことを言いたいのだろうか?

この際はっきりさせておきたい。

「国、政府が、国民の生命の安全を確保することは、無条件の義務である」。

ポイントは「無条件」というところだ。国家は自国民の生命の安全確保に関して、一切厭うてはならないし、拒否することも出来ない。それが近代国家の大原則なのだ。もちろん危機に瀕している国民がいかなる思想信条(例えば政府の政策に反対だとか)を有していようと、それは完全に無関係だ。

もしそれを国家が怠るのならば、国家は国民に基本的人権のひとつとして新たに「自力救済(仇討ち等に代表されるような警察や司法に依らない私的制裁、自力での問題処理)」を認めなければならない。けれども「自力救済」が認められる国家はおよそ国家足りえず(全ての国民が互いに自力救済を行ったとしたら、それはホッブスの言う「万人の万人に対する闘争」=「自然状態」であり、そこでは国家という存在は無きに等しい)、従って「自己責任」を過度に押し付ける国家は、自らの存在そのものの否定を主張していることになる。

僕は前回のEntryで、今回イラクで人質になった人たちを「物見遊山の旅行者とは区別すべき」と書いたが、もちろん例え「物見遊山の旅行者であっても」、国家の救出義務にはいささかも、差別はありえない。

従って「家族の人たちには感謝の気持ちが見えない」といって非難したりするのは完全に的外れ、ということになる(ちなみに、何故こういった非難が、この国においてある程度の広範な共感を呼んでしまうのか、は面白い問題だとは思う)。そもそも政府はまだ人質の救出に成功したわけでもなんでもない。なぜ「救出活動を行っている」というだけで感謝を示さなければならないのか(別に示すのは自由だけれども、それを全ての人に強要するのは端的に誤り)*1。

そして、その救出活動が、政府の過ちによってもしも失敗に終わればその責任は厳しく問われなければならない。そのような義務を国家は負っている。その義務を負って初めて、国家は、国民に対して自力救済を禁止する資格を得、国家となりうるのである。

僕が小泉内閣を認めない、と言ったのはそれが、政治家として最も基本的な認識すら持たない人たちによって構成された、「欠格」内閣だからだ。

*1 政府や外務省の人たちは、今メチャクチャ忙しくて大変かもしれないけど、それがあなたたちのお仕事です。愚痴は家に帰ってから、独り言程度で済ませておきましょう。頑張ってね。

(追記)
ジャーナリスト江川紹子さんのサイト「江川紹子ジャーナル」より。
いわゆる自己責任論について」をリンク。

2004年04月11日

覚えておきたい

イラクにおける人質事件が解決の方向に向かっているということでとにかくホッとしている。けれども誘拐犯グループは「自衛隊の問題」についてのメッセージを残し、僕たちに「ボール」を預けた。僕たちにとってはこれからがスタートなのかもしれない。

以前、自衛隊派兵が議論された時「困っているイラクの人たちを目の前にして、何もしなくて構わないというのか」と、「道徳的恫喝」を行った派兵賛成派が、今回、「物見遊山の旅行者」と明らかに区別すべき人たちに対して「行かなくても良いのに勝手に行った、自業自得だ」、「寧ろ国益を損う売国行為をした」と罵ったことを、僕は忘れない。

NGOによる支援活動は、その機動性、専門性によって、世界各国政府よりきちんとその重要性を認知され、その活動に対する援助すら行われている。ちなみに小泉も以前のメルマガでは、

自衛隊であれ、政府職員であれ、民間人であれ、活躍できる分野があれば国際社会の責任ある一員として役割を果たしていくという基本方針にかわりありません。(リンク
と述べ、なんとNGOなどの民間による活動を寧ろ推奨していたのだ。その活動を、様々な警告を無視して派兵を強行し、やりにくくしておきながら、小泉内閣の閣僚たちは「自業自得だ」と口を揃え、彼らを見捨てようとした。

もちろん、基本は「自己責任」であるということは僕も否定しない。ただ彼らが覚悟をしている(すべき)、ということと、その彼ら、まさに「人道復興支援」を行おうとしていた人たちに対して、政府がどのような態度をとるべきなのかは完全に区別されなければならないし、実際にどうだったのかについては、きちんと考えておいた方が良い。

小泉内閣はまだ誘拐犯とのコンタクトも取れず、交渉も始めない段階で、おそらくブッシュにメッセージを送りたい一心で、「自衛隊は撤退しない」という「結論」を出した(撤退する理由がないとまで言い切った)。これは少なくとも人質の安全確保を完全に無視した暴挙だ(人質の安全確認、期限の引き伸ばし、条件の緩和・変更の打診、説得の試みなど、様々な交渉の余地がありうる中で、それを最初から一切否定するような「断定」を何故行う必要があるのか)。

さらに外務省は「犯行グループとは交渉しない」とまで言い切っていた(ということは、もともと人質を救う気などサラサラなかったということなのか)。

また小泉は人質となった人たちの家族との面会を拒絶した。もちろんそれは彼の自由だ。けれどもその理由として彼が吐いたのは「会っても話すことが何もないだろう」という、およそこの国のトップとしては決して口にしてはならない言葉だった。「何もない」わけがない。会見で福田康夫は彼らを「無辜の民間人」と言ったが、その「無辜の民間人」が「国益の為」と称して見殺しにされようとしているのだ。小泉は家族に対してそれについて、(例え理解を得られるのが困難だと分かっていても)心を尽くして語るべきではないのか。

よく覚えておこう。小泉内閣のこの呆れるばかりの「酷薄さ」を。
よく覚えておこう。小泉の本音は「人道復興支援」にではなく「ブッシュに忠誠心を見せる」ことにしかないということを。

僕はこのような政府を絶対に認めない。

(追記)
ちなみに自社社員を派遣せずに、フリーのジャーナリストにイラク報道の大半を依存しながら、「自己責任」、「危ないという警告を無視して行った人間が悪い」などと政府の尻馬に乗ってシラジラしくうそぶく一部のマスメディアに関しては、もはや何かを言う気すら失せる。

2004年04月09日

「中立性」の価値

イラクで民間人3人が誘拐された事件についての政府の 「そもそも我が国の自衛隊はイラクの人々のために人道復興支援をしているので、撤退する理由はない」という発言は極めて欺瞞的だ。政府は、サマワにいる陸自以外が米軍を支援している事実に目をつぶり、あくまで「善意(中立)の第三者」を気取るつもりなのだろう。けれどもその論理が通用するのは日本国内(しかもその一部)でしかない。

海外からは日本が善意からなどではなく、アメリカ支援の為に自衛隊を出したとしか見られていないのは明らかだ(再び繰り返す、小泉は、自分自身が引用した憲法前文「国際社会において名誉ある地位を占めたい」の意味をもう一度まわりを見渡しながら、確認せよ)。そのことに政府がシラを切るのは勝手だが、この期に及んでとなると、単なる無責任というしかない。誘拐犯の犯行理由には残念ながらそれなりに合理性がある。

日本は既に「中立性」を失ってしまっているのだ。そしてその「中立性」を投げ捨てたコストを今払わされようとしている。ちなみにそのコストについては以前から指摘されていた。別のところでもJVCの熊岡氏は、

軍、軍隊的な組織と明確に距離をとることによって安全を確保している。例えば、CPAは昨年11月以降、指令45項に基づいて全NGOは登録しろ、しないと活動できないと言っているが、われわれは占領軍の傘下にある仲間と思われれば思われるほど、活動は難しくなり、危険にさらされると考えており、あえて登録せずに占領軍と距離をとっている。(リンク)
とNGO活動にとっていかに「中立性」の確保が大切かを述べている。自衛隊派兵はそういった彼らの必死の努力を踏みにじるものでしかなかった*1。それでも、自衛隊がNGOと比較しようのない規模での支援活動を行えているのなら、「NGOの出番はない、ひっこんでいろ」という主張にもまだ一理があるかもしれない。けれども現実は全く逆だ。現地では自衛隊には何の存在感もない。あるのは、(これも何度も繰り返してきたことだけど)現地のニーズには応えられないような代物を「人道復興支援だ」と強弁するレトリックだけだ。

これまでイラク関連のEntryを書いてきて僕も色々考えた。そして結局分かったことは、「軍隊では支援活動は出来ない(餅は餅屋だ)」という極めて単純な事実だった。きめ細かいニーズを捉えてタイムリーに支援を行うには、民間企業やNGOに任せるしかない。そして彼らに伸び伸びと活動してもらうには「中立性」の確保が最も重要になる。もし、日本が本気で「イラクに感謝される支援を」と考えているとしたらその「中立であること」の価値を見誤るべきではなかったし、軍隊の派遣など最もやってはいけない禁じ手だったはずだ。

小泉の面子(今更ブッシュとの約束は破れない)の為に、役に立たない自衛隊の為に、本当に必要な人たちが見捨てられ、切り捨てられる。本当にやりきれない。

*1 ちなみに自衛隊には「中立性」という概念などハナから、頭の片隅にもなかった。彼らにとっては「アメリカにいかにプレゼンスを示すか」が重要なので、「中立的活動」であっては寧ろ困るからだ。「何故CPAの指揮下に入らなければならないのか」という問いは熊岡氏が述べているように、十分有意味な問いなのだけれども、自衛隊の活動は「その問いを問わないこと」が前提となっている。

(追記)
おかしな報道には抗議しよう日記のEntryを通じて、
テロリストへ
というメッセージを見つけた。「日本の世論は大きく変わるはず」…そう、「球」は僕たちにも預けられている。お互いに掛け違えたボタンをもう一度掛け直すことでしか、イラクと僕たちの未来を確かなものにすることは出来ないのだ。

2004年03月27日

総会屋に付き合う必要はない

前回書いた「対案」問題については北田暁大さんのBlog「試行空間」のこのEntryなんかも参考になるかもしれない。

「困っている人がいるというのに何もしなくて良いのか」、「(被害者の声に)正しく応答しないお前は出て行け!」といった道徳的恫喝を行う派兵推進派に対して、反対派には何が言えるのか。

森達也は言う。「北朝鮮の問題がシンボリックですが、被害者の哀しみや痛みなど、実は第三者には分かりません。でもその第三者が、被害者の痛みを知れと居丈高になっている。要するに共有しているのは加害者への憎悪です」(鵜飼哲・森達也「死刑文化からの抜け道を求めて」)。こういう場合、被害者感情は「道徳的総会屋」によって消費されているとはいえないだろうか。「被害者の声を聞かない/正しく応答しないお前は出てけ!」という・・・。
被害者の本当の声など第三者には分からない。でもその諦念から出発して初めて僕たちは被害者との距離を少しでも縮める為の第一歩を踏み出すことが出来るのだ。「分からない」という事実に開き直るのではなく、だからこそ「よりよき聴き方を考え」よう、という方向への一歩を。

けれども、「金だけ出せば良いというものではない」→「人を出して汗をかかなければ本当の支援ではない」→「だから自衛隊を出すのだ」という政府、外務省が主張するこの粗雑なロジックには、肝心の「イラクの人たち」の存在がどこにも見当たらない(本来なら「本当の支援」かどうかはイラクの人たちが判断すべきことだ)。

また、小泉が「イラク復興」と口走る時、一体その中身は何なのか、僕たちは一度でもきちんとした説明を受けたことがあっただろうか。「どのように復興すべきなのか」について、イラクの人たちの意思を汲み取ろうという姿勢を、彼はただの一度でも見せたことがあっただろうか(それとも小泉自身が「復興した」と判断すればそれが「復興だ」とでも言いたいのか)。

もっとも、多くの人が感じているように、政府や推進派の道徳的恫喝は、多分本当は単なる口実でしかない。彼らの本心は「イラクの人たちを助けてあげたい」というところにではなく、寧ろ「自衛隊を海外に派兵し既成事実を作りたい」、或いは「アメリカに自らのプレゼンスを示したい」、そして最終的には「憲法改正に繋げたい」というところにあるからだ。

死刑を巡る議論で「被害者感情」を前面に押し出してくる人々は、曲がりなりにも「道徳に重きをおく」「道徳的総会屋」だと言える。けれども、自衛隊派兵に関する議論においては派兵推進派は本当は「道徳など信じていず」に「道徳を利用しているだけ」の、単なる「総会屋」であるように僕は思う。

まあそもそも、「北朝鮮問題があるからアメリカのイラク攻撃を支持する(=イラクの人たちの犠牲には目をつぶる)」などという、身も蓋もないロジックで突っ走ってきた政府にいまさら「道徳を語る」資格などないのは明らかなのだけれども(「盗人猛々しい」とはこのことだ)。

(追記)
現地のニーズも調査しない押し付けの「支援」を続けていれば、こういう批判が出てくるのは必然だ(リンク1リンク2)。ちなみにサマワの新聞は残念ながらまだ勘違いをしている。「ペースが遅い」のではない。「そもそもあなたたちのニーズは、計画には入っていない」のだ(電力の復旧ってそんなモノが自衛隊の任務にあっただろうか)。

2004年03月19日

対案を提示するのは誰か?

最近はイラク関連のことを書くことが多いので、書くならば、せめて「流し読み」くらいには耐えられるようにと、多くの言及サイトを巡回し、情報を集めようとはしている。その中で最近気になることがある。「対案」というタームだ。

派兵推進派は「自衛隊派兵に反対するのなら、イラク復興には他にどうすれば良いのか、対案を出せ」というセリフを必ずと言っていいほど殺し文句に使うし、派兵反対派の中にも「反対するからには対案を示さなければ、自分たちの主張の説得力が減じるのではないか」と懸念して「対案」をひねり出そうとする人たちが少なくない。

この点に関しては、僕は「こうすればイラクは良くなる」という自分勝手な「復興案」をイラクの人たちに押し付けているという意味ではどちらも似たもの同士だと思える。「復興」というのは、おいそれと「案」が提示できるほど簡単なものではないからだ。これについて最も有用な示唆を与えてくれるのがJ.E.スティグリッツの『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』だ。

世界を不幸にしたグローバリズムの正体ノーベル経済学賞受賞者という生粋の理論家でありながら、世界銀行の副総裁として多くの発展途上国に対する経済支援の現場にも関わった彼はIMFの経済支援策を、教条主義的だと手厳しく批判する。IMFは「自由貿易」、「市場の自由化(規制緩和)」、「国有財産の民営化」、「インフレ抑制(貨幣価値の維持)」、「緊縮的な財政政策」といった「市場原理主義的政策」を「最終真理」のごとく奉り、それを「一律に」発展途上国に押し付けていたからだ(これらの条件をのまなければ融資を拒否)。

けれども問題は「一律に」というところにある。未成熟な経済力しか持たない国ではある程度の「財政出動」は必須だし、ある程度の金融緩和(インフレ)による「失業対策」、「景気刺激策」も重要だ。或いは各種産業の成熟度が低い場合、それを育成し、軌道に乗せる為には「規制」だってきちんと為されるべきなのだ。

でもIMFが新古典派経済学の「理論」を狂信し、一気に上述のような政策を押し付けたために、途上国の経済は混乱し、経済成長の芽が摘まれてしまった(寧ろかえって貧しくさえなった)。しかもIMFの上層部は自分たちの政策がどれだけ惨憺たる結果を齎そうとそれを無視し続けたのだ。スティグリッツは言う。本当に重要なのは改革の「やり方」、「進め方」であって、それは現実、現地の情報、知識に基づいて、慎重に進められるべきものなのだ、と。

この彼の主張は「対案」問題に対して興味深い教訓を与えてくれているように思う。つまり、重要なことはイラクが今どんな状態で、どんなニーズがあるのか、彼らがどういった経済的、政治的、文化的問題を抱えているのか、それをきちんと把握することなのだ。それ無しではどのような「復興案」も「善意の押し売り」、「ありがた迷惑」以外になりようがないのではないだろうか。

だから僕は今回のような、国内の政治的事情のみで決定された日本の「押し付け」の「復興支援」に強く抗議する。それと同時に僕からの身勝手な「対案提示」も禁欲しようと思う。「対案」は「派兵反対派」が示さなければならないものではない。あえて言うなら「イラクの人々」が示すべきものなのだ。

World Peace Nowそう言えばもう約12時間後に迫ってきたんだけど、「ワールドピースナウ」に行こうか行くまいか、今すごく悩んでいる。一緒に行く友達もいないので、日比谷には辿り着いたとしても、ウロウロしているうちに、恥ずかしくて帰ってきてしまう、という事態も十分予想されるからだ。うーん、どうしたものやら。

(追記)
「賑やかし」にパレードに行ってきました。メチャクチャ寒かったけどその割には結構集まったな、という感じ。色んなことを考えながら日比谷公園から常盤橋公園までゆっくり「銀ブラ」してきました。

2004年03月18日

マスメディアは死んだ

このBlogで述べられているように「イラク人道復興支援活動現地における取材に関する申し合わせ」(リンク1リンク2)は「サマワにおいて、私たち(マスメディア)は政府広報、官報としての役割を担う」ということを、実質的に宣言したものだ。

4.自衛隊部隊の円滑な任務遂行 現地の自衛隊部隊の円滑な任務遂行に支障を与えないよう留意する。
がそれを端的に示している。「円滑な任務遂行に支障を与えないよう留意する」ってことは要するに自衛隊にとって不利になるような情報は伝えない、ってことだ。自衛隊が、例え現地で全くの役立たずで、厄介者扱いされていたとしてもおそらくそれは伝えられないだろう。それは「国民の自衛隊派兵に対する支持を失わせる恐れがあり」、従って「円滑な任務遂行に支障をきたす」可能性のある情報だからだ。

したがって今後自衛隊にとってネガティブな情報は、マスメディアからは一切流れてこないこと(或いは逆に些細なことを派手に称える翼賛記事が流れるだけ、ということ)を僕たちは覚悟した方がいい。この申し合わせをもって「マスメディアは死んだ」のだ。これは言い過ぎだろうか?いや、そうとも言い切れないのではないか。

その懸念は既に徐々に現実化しつつあるように思う。例えば「サマワの病院に自衛隊が保育器(10器)などを届けた」というニュース。このニュースについて、TBS(JNN)は「サマワでは新生児の死亡率が10%を超えていて、こうした器具の贈呈で劣悪な医療状況が改善されることが期待されています。」(現在リンク切れ)などと、そこまでして防衛庁(政府)に媚を売りたいのかと呆れるほど、歯の浮くような礼賛報道を行っている(たかが一つの病院に少しばかりの保育器を届けたところで、サマワ全体の新生児死亡率など簡単に下げられるはずもない)。

「マスメディアは死んだ。マスメディアは死んだままだ。そしてマスメディアが自分自身を殺したのだ。」

2004年03月15日

肥大化した自意識

今僕の中で気になっているのは、「自衛隊に協力するサマワの人たちに対する攻撃で死者が出た場合どうするのか」ということだ。その人たちは自衛隊が駐留しさえしなければ死ななかった人たちだ。そのような事が起きても自衛隊は呑気に無意味な「善意の押し売り」を続けるだろうか。

サマワ住民の間には「自衛隊は厄介者だ」という思いが広がるだろうが、おそらく日本では「サマワでテロが起きた」→「自衛隊の安全確保はほんとうに大丈夫か」という「自衛隊の安全」の議論に終始するだろう。繰り返すけれども、自衛隊が行かなければ、死ぬことはなかった人たち、が死んでしまったという話なのだ。自分の行為が他人にどういう影響を及ぼすのか、について全く考えられない、自意識過剰な人たちがする議論は、端的に言って幼稚だ。

自衛隊派兵はそもそも最初からそういう様相を帯びていた。報道で盛んに言われるように「現地のニーズには応えられないということをいかに理解してもらうかが課題」であるようなものがなぜ「人道復興支援」と呼ばれうるのか。そこには自分たちが「善意を持って」何かしようと思えばそれが何であれ「支援」であり、される側がどう思うかは問題ではない、という過剰に肥大化した自意識が透けて見える(阪神大震災で、被災地に駆け付けたボランティア経験ゼロの素人でさえ、まず最初に「何かお役に立てることはありますか」「何かお困りのことはありますか」と聞くマナーくらいは身に付けていた)。

自分たちの選択した行為が、結果的にサマワの人たちに被害をもたらしたことに目をつぶり、自分たちは「善意なのだから恥じることはない」と開き直るようなことがあれば、その時自衛隊の活動は名実ともに「自慰行為」に堕すだろう。

2004年03月04日

水はあるのか、ないのか

「マル激」でケン・ジョセフ氏は「水?誰が困ってるんですか?蛇口からちゃんと出てますよ」と述べる一方で、給水浄水システムの整備の不十分さについても言及していた。ちょっと聞くぶんにはこれは矛盾しているようにも思える。

一体水はあるのか、ないのか?

自衛隊派遣のウソと危険というページではサマワの水の状況はどうなのかについての分析が為されている。

これを読むと、川の水を飲まなければやっていけない、というレベルではなく、きちんと蛇口から水は出ているのだが、それほどきれいではないし、水の出る時間も制限されているというのが、だいたい正しい状況のようだ。で、それを改善する為には、ケン・ジョセフ氏や、あるいはフォトジャーナリストで現地を取材している豊田直巳氏が口を揃えるように、今ある浄水場をきちんと稼動させるための電力システムの改善がなされなければならない、ということらしい。要するに自衛隊が今回行うような「給水車で水を配る」、というのは根本的な解決にはならないのだ。

まあそれはそうだ。住民からすれば「蛇口をひねればいつでもきれいな水が出るような状態」こそが最も望ましい形であって、給水車で水を配るっていうのは応急的・短期的措置に過ぎないのだから。でも今回派遣された自衛隊には、そんな任務はない。

しかも自衛隊がやるような給水支援はフランスのNGOがすでに行っていて、加えてその活動内容は自衛隊が予定するものよりはるかに効率的だという。自衛隊の給水活動には、莫大な金がかかっているにもかかわらず、その供給能力ときたら、50mプールを24日かけてようやくいっぱいに出来る、その程度のものにすぎないのだ。

それにしても、これほど虚しい計画を立てておいて石破は「イラク国民に感謝されるような支援をする」などという恥知らずなことを、よくぬけぬけと言えたものだ。ここには「この程度のことでも貧しいあいつらは感謝するだろう」というサマワの人たちに対する傲慢で差別的な意識が透けて見える。人はそれを普通、「善意」とは言わない。「侮蔑」と言うのだ。

さらに、国民の立場に立ってみれば、サマワの人たち、或いは同じ給水活動を行っているNGOに「あれだけ大騒ぎをして、日本はこの程度か」と思われるだけのものに過ぎない今回の支援は、まさに「国辱的行為」、と呼ぶに相応しいものだ。小泉は自らが得意げに引用した「国際社会において名誉ある地位を占めたいと思う」という憲法前文の意味をもう一度良く噛み締めたほうがいい。

話が少し脱線してしまった。まとめよう。

サマワの水事情は言われているほどは悪くないが、問題が無いか、といえばそうではない。「給水」という短期的、応急的措置はNGOが既に行っているし、そちらの方が効率よく行える。けれども根本的な解決(=「蛇口をひねればいつでもきれいな水が出る」)には、電力の復旧等が必要。けれども今回の自衛隊の「給水」活動は、量(=供給量)、質(=インフラの整備)ともに完全にポイントを外していて無意味に等しい。

こんな感じかな。

2004年02月29日

「善意」という問題

今週の「マル激トークオンデマンド」のゲストは、前回の出演で「イラクはアメリカ軍を歓迎している」、「イラクの治安は悪くない」と発言して、宮台、神保両名を絶句させた、ケン・ジョセフ氏。今回も驚くべき証言を連発。

(1)サマワの治安は非常に悪い(現地人のドライバーも行きたがらない)。その原因は自衛隊という「軍隊」がやってきたこと。そういう「軍隊」を標的とするテロリストが海外から流入してくることによって、サマワはテロの温床になりつつある。

(2)従ってサマワの人たちは自衛隊という「軍隊」を全く歓迎していない。彼らが来ることで以前は平和だった町の治安が急激に悪化したので、逆に「迷惑に」思っている。テレビカメラの前で「自衛隊を歓迎している」とコメントする人たちは、お金を貰っている部族長から「そう言え」と脅されているだけ。

(3)「水」には困っていない。各家庭で蛇口からきちんと出ている(ジョセフさんはつい先日サマワでお茶を出されて飲んできた)。また雇用についても、「13万人」の町で「600人」程度なので、ほとんど歓心を引いていない。

(4)日本は、サマワで局地的な支援を行うよりも、政治システム、憲法を含めた制度設計のような全体的な支援をすべきだし、そういったことこそがまさに求められている。

小泉、石破ら派兵推進派は、憲法違反やイラク攻撃の大義の問題では逃げの一手を打ちながら、最後には「困っているサマワの人たちに対して日本は何もしなくて良いというのか」というのを殺し文句として用いてきた。「何もしない」よりは「何かした方がいい」、これは「善意」だ。なのに派兵に反対する人たちはその「善意」を否定するというのか、という議論だ。

けれども「善意」というのは難しい問題を孕む。ジョセフさんが例に挙げるように阪神大震災では、「善意」で駆け付けた素人のボランティアがかえって被災者の負担になったケースも少なくなかった。「善意」だから何でも許される、というのは自分勝手で傲慢なロジックでしかない。

そしてジョセフさんの言うことが正しければ日本はまさにその「善意の押し売り」「ありがた迷惑」を行っていることなる。自衛隊という「軍隊」では「軍隊であるが故に」まともな支援活動は出来ないどころか、テロリストを呼び寄せる迷惑な存在でしかないというのだから。もちろん僕は今回の自衛隊派兵が純粋に「善意」に基づくものであったかどうかさえも疑わしいと思っている。(本当に、日本政府はイラクにどういったニーズがあるかきちんと調査し、その上で、そのニーズは自衛隊でしか満たし得ないとして派兵を決めたのだろうか。)

さらに僕が気になるのは、「サマワは自衛隊の支援を欲している」というストーリーがどのような意味を持つかだ。

「サマワを支援してあげたい」という自衛隊の「善意」と「サマワの人たちも自衛隊による支援を望んでいる」という「善意」を欲する人々の存在。そこには幸福な需要と供給の一致がある。この構図において自衛隊を狙うテロリストは、その幸福を邪魔する=善意を否定する「理不尽な悪」として表象せざるをえない。

もしそこで自衛隊員が何人か犠牲になったとしよう。派兵推進派は「我々は善意で自衛隊員を送り、サマワもそれを歓迎してくれているのに、それを標的にするとは何事か」→「テロリストには断固たる態度を取るべし」→「そもそも理不尽なテロによる犠牲を防げなかったのは憲法九条が自衛隊の武装、武器使用を制限したせいだ」→「従って、犠牲者の志を無にしない為にも、日本の善意を貫徹する為にも憲法を改正せよ」、おそらくこのような主張を行うのではないだろうか。

けれども繰り返すように、ジョセフさんの言うことが正しく、「サマワは自衛隊の支援を欲している」という前提が大間違いであれば、自衛隊派兵は全くの「ムダ」であり(税金上も!)、イラク(サマワ)のことを思うなら派兵してはならないことになる(もっと言えば即座に撤退すべき)。にもかかわらず、その上で派兵されて死者が出たならば、それはもう文字通りの犬死でしかない。そして、彼らを犬死させた責任は、自衛隊の最高司令官であり、派兵を命じた小泉純一郎にあるというより他は無く、彼の責任をテロリストたちや憲法九条に転嫁することは絶対に許されない。

とりあえず今週の「マル激」は「もう派兵は決まったんだから仕方ないじゃないか」と言う全ての人たちに聞いてもらいたい。もしかしたら僕たちはとんでもない勘違いをしているかもしれないのだ。

(追記)
Fujii牧師の独り言の「マル激トークオンデマンド」についてのEntryをリンク。今週の「マル激」の内容が、僕のEntryより正確に要約されてあります。「Videonews」会員でない人は御覧になってみてはいかがでしょうか。

About Iraq

ブログ「Dead Letter Blog」のカテゴリ「Iraq」に投稿されたすべてのエントリーのアーカイブのページです。新しいものから順番に並んでいます。

前のカテゴリはDiaryです。

次のカテゴリはMemoです。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。