Main

Memo Archive

2008年03月12日

「貸倒引当金」を使い込め!

「貸倒引当金使い込め」新銀行東京、旧経営陣が常軌を逸した指示 今夕、内部報告書を公表

報告書には、旧経営陣が「貸倒引当金を使い込め」と繰り返し指示するなど、常識を逸脱した発言の数々があったことも盛り込まれた。

確かに常識を逸している。「貸倒引当金」なるものを実際に手にし、それを使い込める人間が存在したとは。

ちなみにどこかで聞いた笑い話。あるなりたての会計士(補)が、監査に出向いた時に大真面目に「ところで資本金はどこにありますか?」とクライアントに尋ねたそうだ。もちろん上司から大目玉を食らったそうだが。

2007年06月04日

中国の教科書制度

「中韓は国定教科書だが日本は違う」という主張をインターネットの世界ではよく目にする。
はてなキーワードを見ると案の定
国定教科書

国家が定めた教科書のこと。義務教育を含む普通教育の教科書の発行権限が政府にしかない国で発行されている。日本では第二次世界大戦が終わるまでは国定教科書を使用していた。現在でも中国や韓国、北朝鮮などでは国定教科書を使用している。

とある(2007/06/03現在→2007/8/29現在修正されています)。だが例えば中国に関しては以下を見て頂きたい。

財団法人教科書センター
「中国の教科書制度と歴史教科書について」
中国近現代史研究者の大沢武彦氏の解説

中国は1980年代後半から、日本の教科書制度を研究し・取り入れる改革を行ってきた。結果現在教科書は多様化しており、地方に採択する権限も委譲された。つまり中国の教科書制度が「国定」であるというのはデマだということである。また韓国も一部を除いて検定教科書であり、近い将来(2010年予定)完全な検定制度に移行するとのことである。

ちなみにウィキペディアでも
国定教科書

戦前の日本、現在でも韓国や北朝鮮、中国は国定教科書制度を採用している。
と誤記述が為されていたので直しておきました。はてなキーワードについては僕は「市民権」を持っていないので誰か気が向いたら直しておいて下さい。

2007年05月18日

「君主」の政治利用

数ヶ月前

「立候補は日本国民、誰でも自由だけど、いっときのムードや人気だけはいけない」
(報道陣から「タレント候補ではダメなんでしょうか?」との質問が飛ぶと)「いろいろな例をみてもそうだ。ダメだと思いますね」

数ヵ月後

同党は、すでに立候補を表明している元都議で現職の保坂三蔵氏とすみ分けができるよう、組織に頼らなくても当選できるタレントなど著名人の擁立をめざしてきた。

いかにも「美しい」選挙である。

2007年03月06日

「共同声明」の転載

映画『Nanking』へのネガティブ・キャンペーンおよび南京事件否定論に反対する日本のネットワーカーの共同声明

映画『Nanking』(テッド・レオンシス、ビル・グッテンタグほか制作、ビル・グッテンタグ、ダン・スターマン監督)のニュースが2006年11月に日本に伝えられた際、産經新聞はこの映画が「反日史観で知られる」中国人作家の著作を原作にしているという根拠のない報道を行ないました。これに続きいくつかのメディアは本作を「反日映画」「ブラック・プロパガンダ」だと決めつけています。この報道が引き金となり、映画関係者(レオンシス氏や出演した日本人俳優)のブログに悪意に満ちたコメントが多数投稿されるというかたちで、南京事件否定論者による攻撃が行なわれています。攻撃の対象となったブログは、南京大虐殺は中国の反日プロパガンダによってでっち上げられたフィクションであると主張するコメントでいっぱいになっています。こうした状況に鑑み、戦争犯罪に関心をもち、あるいは旧日本軍の戦争犯罪を否認する活動を憂慮する私たちは、次のように声明します。


一、南京事件ないし南京大虐殺は否定する余地のない歴史的事実です。私たちは1937年から38年にかけての冬で南京で行なわれた蛮行の詳細については各自の見解を保持する権利を保留しますが、「大虐殺 (atrocity ないし massacre) 」と呼ばれてしかるべきことはたしかに起きた、と考える点でみな一致しています。


二、この映画がまだ日本では公開されていない現段階において、私たちは映画それ自体についての評価は差し控えます。しかしながら、このような論争的なテーマについて映画を制作、公開する自由を私たちは全面的に擁護します。また、南京事件についての研究、議論を深めるきっかけとして、本作が日本公開されることを望みます。私たちは本作に対する、否定論的、人種差別的な動機に基づくネガティヴ・キャンペーンに反対します。


三、南京事件否定論は職業的な歴史研究者によっても日本政府によっても支持されていないことを私たちは知っています。私たちは各自の事情の許す範囲で南京事件否定論に異議を唱えてきましたし、これからもそうするでしょう。

2007年2月23日

署名もしてきました。事件そのものについては笠原十九司『南京事件』と秦郁彦『南京事件』、間接的に多少関係するものとしては戦時国際法に関するもので藤田久一『戦争犯罪とは何か』、それからインターネット上では、ゆう氏による「南京事件 小さな資料集」や「南京事件FAQ」などに一通り目を通した上で、僕なりに判断した結果です。

2006年09月20日

条約の解釈は文書がすべてか?

(引用元)大沼保昭『国際法 はじめて学ぶ人のための』

continue reading"条約の解釈は文書がすべてか?" »

2006年09月08日

君に幸あれ

昭和天皇の死因は膵臓ガンだった。

彼が最初に倒れたのは昭和62年9月。ガンの進行による腸閉塞を起こしたのだ。東大病院の関係者は一様に驚いたという。「こんなに末期的な症状になるもっと前になぜガンだと分からなかったのか」。天皇家に敷かれている医療体制はこの国で最高水準のものだと、考えていたからだ(これは当時も、今も誰しもが思うことだ)。が、その内実はお寒いもので、彼はその時までまともな検査をほとんどしたことがなかったそうだ。天皇の身体に触れることが「畏れ多いこと」、「不敬である」とさえ考えられていたからだ。

さらに彼は、ものが通るように腸のバイパス手術を行っただけで、まともなガン治療を受けられなかったという。抗癌剤治療や放射線治療を行うには当然、病名の告知が必要だが、「告知はできない」という理由でそれら一切が見送られたのだ。当時のマスメディアでも「慢性膵炎」と報じられた。

彼は1年後(昭和63年9月)に再び倒れ、すぐに昏睡状態に入った。が、3ヶ月後彼の心臓が鼓動を止めるまで、10万ccとも言われる(噂では当時、関東圏のAB型の輸血用血液のストックが空っぽになったと言われる)大量輸血という前代未聞の延命「策」が採られた。本人にはもう意識など無いにもかかわらず。

結局彼は「人間」として治療生活を送れず、「人間」として死ぬことが出来なかった。

今はまだ幼子の君よ。

君の未来が人間らしくあるかどうか、そのような環境を用意してあげられるかどうか、僕はとても心もとない。それでも祈ろう。君の前途に幸多からん事を。

(参考文献)
平岩正樹「がんで死ぬのはもったいない

(追記)
平岩氏が、昭和天皇のガン治療のいきさつについて語った音声ファイル(1月17日付)がネット上に残っていたので一応クリップ。ちなみにこの中で平岩氏が語っているように、昭和天皇の教訓を踏まえ、おそらく今は定期的な人間ドック等が行われ、上記のタブーは存在しなくなっていることも事実だろう。

が、例えば今週の週刊新潮は今回の出産について興味深い事実を報じている(p26~)。

前置胎盤が判明した時点で、愛育病院は早めに産んだ方がいいと判断した。胎盤の異常のせいで胎児に十分な栄養がいきわたらない上、胎児が成長しすぎると大量出血を起こす可能性が高くなる。そこで当初、病院側は8月中に出産させたい意向でした。
にもかかわらず宮内庁は
もし胎児が充分に成長していない状態で出産となれば、保育器が必要になる。もし生まれてくるのが将来皇位を嗣ぐかもしれない男児ならば“弱々しく”生まれたようなイメージはふさわしくない。
とおよそ、一般の国民の出産に際しては決して考慮されることがありえないロジックで「予定日出産」にこだわり、横槍を入れたという。

また帝王切開の際の麻酔を「部分」にするか「全身」にするかという点をめぐっても、病院側が、大量出血の可能性から全身麻酔もありうることを告げると

皇室の方の意識を一時的とはいえ失わせるのはいかがなものか
という声があがり議論になったという。

そうかと思えば、逆に人の結婚・出産を馬の血統の保存のようにしか考えない人間も多い。

つまり、君は生まれてきた世界とは「そういう」世界なんだ。

2006年03月11日

ミクロとマクロ

前回僕は不用意にも「まずは」民主主義的な社会、逆バネの効く社会が構築されることが肝心、などと書いてしまったが、やっぱりシステムを構築するのって結局ミクロなパトスの下支えがあってだよなあ、とも思う。そんなことを改めて思い出させてくれた記事や発言をメモ。

まずはpavlushaさん

システム的解決法が理論やモデルの設計・構築に当たるなら、人格的解決法はその理論やモデルに対する検証や反証の手続き、または理論やモデルそのものを作ろう(または適用しよう)と意欲するための契機に当たる。どちらにもそれぞれ重要な機能があり、どちらか一方だけあれば足りるというものではない。
お次は山形浩生さんのとてもかっこいい発言
ぼくにとって制度とはそういうものではありません。制度とは、結局のところ、その社会の構成員が自主的に(いやいやかもしれなくても)やることの総和です。法律なんて、そのごくごく一部でしかありません。ですから制度を変えるというのは、ぼくにとってはまず自分からその行動を起こすことです。現在の著作権制度やソフトウェアのあり方について疑問だと思えば、ぼくはそれを少しでもよくすると思われる活動をしますし、またそれに関連した団体に寄付をして、現状を変える努力をします。途上国援助についても、足りないと思っているので、そこそこの寄与を自分の評価に基づき私的に行います。その上で、言論活動を通じて制度改変の必要性をも訴えます。それに賛同して自主的にやる人が増えれば、制度というのは変わるんです。既得権益がにらみ合いになったり、手詰まりに陥っているときにのみ、お上頼みの強制的なてこ入れはあり得る。またマクロ経済政策のような、個人では何ともならない部分もある。でも、個人でできる部分もあるのです。むしろそのほうが遙かに大きいのです。
もういっちょ、山形さん
マクロはミクロの積み重ねでしかありません。それは100人の村だろうと1億人の社会だろうとまったくかわらないのです。一人の活動の量は確かに小さい。でも、マクロな制度の変化は、その小さい活動の積み重ねでしかない。所得の4割を税金として召し上げようという制度を作るためには、一応民主主義の建前として、その社会の構成員みんな―あるいは過半数か多数―が、所得の4割を社会に拠出することがよいことだと納得しなくてはなりません。そしてそこで納得するのは、「マクロな社会」とかいう抽象的なものではなく、ごく小さな力しかない、ミクロな個人なんです。

その議論を納得させようとしている当人が「オレの貢献なんて小さいから行動しない」と明言するのであれば、その人は納得させるべき数千万人の最初の一人である自分すら説得するのに失敗しているのです。

そして有効に機能する制度においては、人は自分の貢献が小さくても、それが社会にとって確実によい影響を与え、役に立っているのだと感じなくてはなりません。自分の貢献、自分の行動が小さくても、それが多少なりとも社会を支えているのだと実感し、制度だから何かをやるのではなく、自分が自発的にそうしたいから(少なくとも、そうしないと困るから)やる、という状態にならなくてはいけません。人が社会に所属し、社会の一員としての意識を持つというのはそういうことです。みんなが「おれの貢献なんか小さいんだからやっても無駄だ」と思うような制度は、制度としてそもそも成立しないし、それが拡大すればその社会の存立すら危うくなります。

マクロ経済で言われる「合成の誤謬」みたいなのはあくまで例外。個々人の意思の積み重なりが制度を作り変えていくんだというのは、確かに時に気が遠くなってしまうような話かも知れないけど、やはり基本だよなあと思ったり(個々人が変われば制度は変わるんだとポジティブにとらえればそれは「希望」でさえある)。「ポールさんになったところで何も変わらない」とか「差別と区別の違いは曖昧」とか賢しらなシニシズムに戯れているだけで、個々の実践には一向に背を向けている人間が大半を占める社会で、どうして虐殺の芽を勝手に事前に摘んでくれるような都合のいいシステムが出来るのか、ということですね。

2005年06月21日

読売新聞かく語りき

6/4の読売社説について、そこここで「転向しやがって!」といった怒りが渦巻く昨今ですが、さてそもそも読売の靖国に対するスタンスはどんなものだったのだろうか。Web上で読める読売新聞の靖国に関係すると思われる社説を時系列で色々と集めてみた。

2001年小泉が首相になって初めて靖国に参拝した時(終戦記念日ではなく「前倒し」参拝でした)の読売社説「前倒し参拝は適切な政治判断だ」。

2003年は前日小泉が初詣として参拝したことを受けて1/15「首相の考えがわかりにくい」と終戦記念日の8/15の社説「『A級戦犯』とはなんなのか」。

2004年は4/4「『靖国』問題を対日カードにするな」と8/15の「『BC級戦犯』をも忘れまい」。

2005年は5/25「最低限の国際マナーに反する」と6/4「国立追悼施設の建立を急げ」。

僕なりのまとめを簡単に。

読売は2001年から代替施設建立に反対はしていない。従ってその点では一貫していると言える。ただ一度前倒し参拝を「適切な政治判断」と評価しておきながら、2003年の初詣参拝を「時期はいつでもいいのか」と怒ったりして、意味不明。また「本来戦没者の追悼については他国にとやかく言われる筋合いの問題ではない」という点でも割と一貫しているが、例えば代替施設の建立の目的については「国際的な摩擦を避けるため」という言い方をしたりするところも、靖国参拝支持派にすれば「煮え切らない」という印象になるかもしれない(ちなみに2005年6/4の社説ではその目的を「国内に反対派がいる*1から」というものにシフトさせている)。

感情的に噴きあがってみたり、合理的に割り切ってみたり、バランスがいいのか日和見なのか判断のつきかねる新聞社ではある。ちなみに特に個人的な感想は無いです。「ふーん」って感じ。

*1自社の現「主筆」の影響があるのかもしれない。

靖国神社に昇殿し、記帳し、宮司のおはらいを受ける「公式参拝」は、すぐれて政治的行為だ。小泉首相が純粋に宗教的、精神的な行為だというなら、深夜か早朝に人知れず参拝すればよい。A級戦犯の七人は、戦死ではなく刑死である。私は東京裁判の判決が絶対的正義だとは思わぬが、太平洋戦争の何百万という内外の犠牲者を出した責任、あの凶暴な陸軍の行動基準を推進した責任(陸軍二等兵だった私は、今でも許せないと思っている)、憲兵、特高警察による暴力的思想統制の立案、実行責任等については、日本国民自身による歴史検証を経たうえで罪刑の普遍的妥当性を判断すべきだ。(文藝春秋より抜粋)

2005年06月15日

天皇を利用しているのは誰か?

以前書いた記事「不敬であるのは誰か?」とその関連記事「昭和天皇は何を詠ったか?」、「天皇制のあり方」は、このBlogの他の記事に比べても、非常に閲覧者が多い(天皇の影響力恐るべし)。ところで上記の記事で展開した説を支持する本を偶然見つけた。

岩見隆夫「陛下の御質問」によると、元総理大臣である中曽根康弘氏の靖国への公式参拝中止に際しては、このようなことがあったと言う。

まもなく、富田朝彦宮内庁長官から中曽根のもとに、天皇の伝言がもたらされた。「靖国の問題などの処置はきわめて適切であった、よくやった、そういう気持ちを伝えなさい、と陛下から言われております」
確かに昭和天皇が靖国について本当はどう思っていたのかを示す直接的証拠は無い。だから僕なんかは非力ながらもこうやってコツコツと状況証拠を積み重ねているわけだけれども、世の中にはそういうのを全く無視して平気な人がいるんですねえ、櫻井よしこさん。何の根拠も示さず(取材による裏づけも示さず)ただ自分の「推測」(それは妄想とどう違うんだろう)だけで
崩御の少し前に出されたこれらの最高裁判決を“きざし”と解釈された可能性はあるのではないか。いずれの歌からも靖国神社参拝を熱望なさる心情が伝わってくる。陛下の心中の“うれひ”は“A級戦犯”合祀よりも、国に殉じた人々への政治家たちの言動に対する深い失望ではなかったのか。
中曽根氏は外国の意向故に、日本国の土台を揺るがせた。陛下はそのことを悲しみ、「うれひはふかし」と詠まれたのではなかったか。
天皇の心をこれ以上曲解し、踏みにじることは許されない。
などと主張してしまうあなたの神経(ジャーナリストとしての良心)を僕は疑うな。というか、あえて言わせてもらう。「恥を知れ」。

2005年05月27日

米軍は解放軍?

free definitionの「小泉純一郎」の項目に興味深い記述。

ジョージ・ブッシュ米国大統領との会談において太平洋戦争当時の米軍を解放軍だったと評価、亀井静香らの批判を受ける。
確かにこの事実関係はまだはっきりとはしていないのだけれども、こういう話は2001年6月の会談直後から漏れ聞こえてきていた。亀井氏のみならず僕の記憶によれば、当時の「マル激」でも神保さんがそんな話をしていたはずだ。

これが本当なら実に面白いことになる。「米軍が解放軍」ということは、彼自身「敗戦によって日本国民は、抑圧者である軍部から解放された」という歴史認識を持っていることになり、それは「日本国民も中国国民も、一部の軍国主義者による同じ被害者である」という中国の公式の見解・歴史認識とほぼ変わらない、ということになるからだ。

それにしても、日本国民はアメリカ軍に占領されるまで抑圧を受けていた、という認識の人が、A級戦犯を英霊として祀る靖国神社に参拝をする、というのはなんともシュールな構図だ。というか、英霊に失礼なんじゃないですかね、それって。

(追記)
どうやら首脳会談直後の会見では米軍を(微妙な言い回しながら)「征服者ではなくて解放者」と評していたようだ。

戦争が終わり、日本国民は米国が征服者としてやって来る、自分達はことによると奴隷にされてしまうのではないかと恐れた。結果的には、どうか。寧ろ、米国は勝者として寛大な解放者として振る舞った。

2005年05月16日

50年前の憲法論議

今月号の「論座」は憲法特集。僕もスワンさんと同様に長谷部恭男、井上達夫、小熊英二という執筆陣に惹かれて買って読んでみた。

論座長谷部さんは「立憲主義」という枠組みから自民党の改憲論を論じ、井上さんは改憲派に関しては「押し付け論」に潜むダブルスタンダードを、護憲派に関しては「絶対平和主義の不徹底」(=エゴイズム)を共に厳しく批判し、小熊さんは改憲論議が現在盛り上がりを見せる背景について分析をしていた。

その中で今回僕がちょっと興味を持ったのが小熊さんが言及していた「自民党の50年前の改憲論」についてだ。

50年前の自民党の改憲試案(おそらく「広瀬試案」だと思われる)には、「天皇を元首にする」、「基本的人権(表現、結社の自由など)の制限」、「9条の改正」、「家族の尊重」、「参議院を政府からの推薦議員によって構成する」、「都道府県知事の公選制の廃止」などが盛り込まれていたそうだ。

現在の自民党案と似通っている部分も多いが、「参議院」や「地方自治」の捉え方も合わせて考えれば、より「戦前回帰志向」が強い。で、この改憲案はどう捉えられていたのか。1957年5月3日の朝日、毎日、読売、産経の社説から抜粋させて頂くとしましょう。

まず朝日新聞。

最近の広瀬試案は、参議院重視の特徴をもちながらも、同一方向の改正案を集大成した感がある。天皇の地位を高め、「日本国の首位にあり 日本国を代表する」として、元首的性格をもたせ、国民の基本的人権については、「一定の条件の下では法律をもってする規制に服する義務がある」として、その一般的限界を明示し、「婚姻または血縁に基礎をおく生活協同体」を「家」とし、国に家を保護する責務を負わせている。

…(中略)日本国憲法十年の歩みは、少なくともその根本原理である平和主義、民主主義の一線だけは守り抜いてきたことを、否定することはできない。現行憲法の諸条項に対し、その不備、その欠陥を指摘して、改正を提唱することはともかく、それらの改正論が、民主主義、平和主義の根底をゆり動かす結果を来すならば、それはむしろ改悪であり、危険ともいえよう。(「憲法十年の歩み」)

次に毎日新聞。
国会の勢力関係からいって、憲法改正は急ぐことのできない客観的な条件の下にある。そういう時だからこそ二つの陣営は憲法を冷静に検討すべきであり、国民全部に理解させる努力が必要である。憲法問題はこぶしをふりあげて興奮するよりも、冷静に国の将来や社会のあり方を考えて判断すべきだ。(「今こそ冷静に憲法を考えよう」)
お次は読売新聞。
改憲論の代表的な具体的表現と見るべき広瀬試案を見ても、天皇を「国民統合の中心」として国民の「首位」であると規定したり、参議院を超党派的なものとして、推薦制度を付加するものに改めようとしたり、家族制度の国家的保護を求める条章を入れるなど、現行憲法には見られない国家主義的要素が少なからず加わっている。特に改正論の発端となった防衛問題については、自衛軍を保持することとし、しかも一定の条件における海外出兵までも認めている。広瀬案にも総理大臣を「国務委員長」に、大臣を「国務委員」に改めるなど何人にもうなずける点もあるが、全体として平和主義と民主主義を強調している現行憲法から見れば少なからず今日の時勢に逆行しているかの観がある。(「現行憲法の精神は強く守れ」)
最後は産経新聞。
改正論の中でも、天皇制や家族制度を昔に返せというような反動説は、もとより問題外である。現行憲法に如何なる欠点があるにしても、個人の自由とか民主政治とかの点においては、日本国民の大多数が満足していることは疑いなく、戦後の急造にしては大体よく出来ているというて差支えあるまい。そこで擁護論者中には、この民主体制をくずすから改正はいけないと説くものもあるようだが、しかし民主政治において一旦与えられたものは容易に奪われない、という原則を承知している改正論者ならば、この点を反動化しようと企てる筈もなかろう。

改正と擁護の最大の論点は、いうまでもなく第九条の戦争放棄の条項と、国家固有の自衛権とを如何に調和させるかの一事である。しかもこれこそ侵略戦争の敗北による日本の詫び証文ともいうべき全然一時的の産物である以上、守り得る独立国家の憲法としては、当然表現を改めなければならない。国家が常に虚言や詭弁を弄しなければ、立って行けないような憲法であってはならぬからである。(「憲法調査会を活用せよ」)

産経は「9条の改正」には賛意を表しているものの、それ以外については毎日を除く3紙とも(毎日には具体的言及が無し)、改憲案については全体主義的、国家主義的ということで批判的。50年前の自民党案は実に不人気だったようだ。

2005年05月13日

「母の葬式で泣かない」こと

母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣告されるおそれがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮らす社会では、異邦人として扱われるよりほかはないということである。(A・カミュ 『異邦人』)

continue reading"「母の葬式で泣かない」こと" »

2005年04月23日

メディア・リテラシー

「中国こそ恣意的に歴史を解釈 反日デモで米紙論評」(読売新聞)
(現在リンク切れ。全文は木走日記の方でお読みになれます。)

この記事に対し、木走正水さんがカウンター記事を書かれている。( 「木走日記(4.20)」)これによると、ワシントンポストの元記事は、日本が第二次大戦中に為した犯罪について、日本の政治家が認めたがらないこと、不十分な謝罪しかしてこなかったこと、しばしば矮小化しようとすること、を中国側の言う通り「事実」であるとし、また教科書問題についても、一部の教科書の記述が反日暴動の一因となっていることを認めている。にもかかわらず、読売の記事では、その部分が一切抜け落ち、ワシントンポストは中国に歴史問題を語る資格は無い、とだけ主張しているかのごとき筋立てになっている。産経も似たような記事を書いているのだけれども、まあ、率直に言って「牽強付会」のそしりを免れないだろうという気はする。

ちなみに朝日新聞の記事を微に入り細に入り検証し、その「偏向」を暴き、糾弾するのを嬉々として行うヒマな人たちがインターネットの世界では目に付くのだけれども、これからはスコープを広げて、読売・産経新聞の記事にもツッコミまくって頂きたい。それがまさに「メディア・リテラシー」でしょうから。「朝日は偏向しがちだが、読売・産経はバランスが取れている」なんていう「都市伝説」を信じている方はまさか、おられないでしょうし(蛇足ですが、ここに「毎日」を入れなかったのには特に意味は無いです)。

最後に、以前言及させて頂いた記事をここでもう一度引用させて頂く。

note of vermilion「メディア・リテラシー

メディア・リテラシーの言説はむしろ、メディア・テキストをご都合主義的に信じたり信じなかったりする、というか「解釈」する言い訳にむしろ使われている、ということがある。…(中略)…マス・メディアは個人が生活世界の外部と交通する場面であって、その情報を、解釈の名のもとに恣意的に否定することができたら、外部から簡単に閉鎖的な信念を防衛することができてしまう
「メディア・リテラシーが必要とされる」とか、「うそをうそと見抜けないやつ」を馬鹿にする言説には、誰でもリテラシーの有無にかかわらず本質的にだまされうる存在であるという認識がかけているし、メディア・リテラシーが、メディア情報の恣意的な再解釈にならないための歯止めになりうる部分が欠けている
メディア・リテラシーにはひとはだまされるものだという意味で本来的限界があるし、メディアの言説の受容においてテキスト批判や解釈がご都合主義的に用いられることで、自己の信念に情報が従属し、選択的にしか受け入れられない、ということにもなりやすい
朝日を否定しさえすれば「バランス感覚」を保てるのだ、というのは自己欺瞞にすぎない。

(追記)
「中国の教科書は国定教科書で一種類しかない」、というのは正しくないという指摘。確かにこのページを見ると、中国の教科書制度は日本と大まかなところではそれほど違いが無い。で、上の記事を再度見直すとWP紙は「中国ではたった一つの歴史観しか許容されない」と書いていて、「たった一つの歴史教科書しか許容されない」とはなっていず、慎重な言い回しになっている。

ちなみにJonahさんへ。24日の町村信孝の発言については、読売の記事では「歴史の解釈が1つしかないなんて、こんな馬鹿なことはない」となっているんだけれども、一方共同の記事では「歴史教科書が1つしかないなんて、こんなばかなことはない」となっています。後者であるなら間違いですが、前者なら必ずしもそうとも言えないところが何とも微妙です。まあ共同の「国定教科書云々」の発言が事実なら、後者である可能性は高いんですが。

2005年04月15日

「切り離し」の倫理

外務大臣町村信孝の発言

「日本とドイツが似たようなことをやったというが、ドイツはユダヤ民族を抹殺するという大犯罪行為」…(中略)…「人数や性格の差を議論してもしょうがない部分があるが、彼らは(ナチスを)ドイツ人とは別の種類の人たちだったといわんばかりに全部ナチスのせいにすることができた。そういう分類は日本ではなかなかできない」
これは西尾幹二の主張を鵜呑みにしたものと思われる。西尾幹二は、ドイツ国民とナチスの「切り離し」に関して「(ドイツ国民全体の責任を否定するもので)無責任」、「卑怯」といった文脈で語るが、それはドイツが戦後いかに「過去の克服」という課題に取り組んできたか、というそのプロセスを矮小化し、その一部については(意図的に?)無視しているものである、という指摘がある。

清水正義氏(ドイツ現代史)「異ならない悲劇 日本とドイツ ―西尾幹二氏の所論に寄せて―

また「過去との切り離し、決別」という態度に対する、「無責任」、「自民族を正当化せんが為のレトリック」といった批判が、いかにも底の浅い代物であることは、以前も紹介させていただいたfenestraeさんやjounoさんのEntryを読んでもらえば分かるだろう。

fenestrae「連続と切断、内なる歴史をどうするか。

しかしまたわれわれには、現代につながる近過去を、新しく獲得した現代の価値基準で見、そこからショックを受け、受け入れられないものとしてはねつける権利も義務もあると私は信じる…(中略)…私は競争で人を殺すことを是認し、それを英雄的とすら称える世界には生きていないこと、自らの軍隊が捕虜や市民を殺害するこを仕方のないことだと思ったりそれに対する批判が許されない世界には生きていないことを幸運に思い、その価値を守りたいと思う。…(中略)…その体制は子供であった私の父もいた体制であり、私の祖父母が担った体制である。私は彼らの経験や彼らの証言と引き比べることで、戦争のもたらした結末によって体制に多少なりとも断絶がもたらされ、新しい価値観を選択した体制の中で生きていることをよかったと思うと同時に、その断絶が必ずしも十全ではないこと、新しい価値観の選択は常に更新されなければならないと思う。
note of vermilion「歴史と謝罪
戦争の主体として大日本帝国を、現在の日本国家のアイデンティティから批判的に他者として切り離し、その連続性を断つということが問われているのだろう。
これは一つの倫理に他ならない、と僕には思われる。

2005年02月26日

(続)性犯罪者の再犯率?

強制わいせつ8%が再犯 重要犯罪でトップ

「検挙された犯罪者のうち何人再犯者が含まれているか」=「再犯者率」ではなく、「一度処分された犯罪者のうち処分後一定期間内に再び犯罪を犯す人の割合」=「再犯率」に近いデータが出てきたみたい(この記事に示されているのは正確には再入所率)。

2001年に出所した「強制わいせつ犯」の内、2003年までに8.3%が再び同じ罪を犯して刑務所に舞い戻ってきたと。再犯率は「執行猶予を受けた犯罪者」も考慮に入れなければならないので、これよりもう少し高くなりそうなのだけれども、奥村弁護士によると(「日記みたいなもの。」経由)禁錮刑の前歴を持つ者はほとんど執行猶予はつかないらしいので、おおよそ「再入所率」≒「再犯率」と考えていいだろう。

これが高いか低いかだけど、それは相対的にしか決まらないので、他の重要犯罪の再犯率も示してくれないと何とも言いようがない。しかも重要犯罪の内、「殺人」とか「誘拐」なんていうのは何度も繰り返せる犯罪じゃない(刑が重いので刑務所を出たり入ったりということが出来ない)。というわけで「重要犯罪の中でトップ」というのはちょっと印象操作に近いものがあると思う。そんなにミーガン法を成立させたいですか。

とは言え、今まで矯正プログラムがほとんど無かった中で9割以上が更生していること、全受刑者の再入所率は約30%強、といったことを踏まえると、ますますミーガン法の必要性の根拠が薄くなったということは言えそう。

ちなみに前述の「日記みたいなもの。」によると、警察庁はミーガン法の根拠である「(一般的な)性犯罪者の再犯率の高さ及び、危険性」を示すことが出来無かったので、方針を転換して「児童を対象にした性犯罪者」に絞り込んだデータ、また「児童は防御能力が低い」といった理由を強調することで、ミーガン法の有用性を喧伝しようとしてるふしがあるらしい。

そうやって官僚は無理矢理にでも自分の「縄張り」を増やそうとするのですねえ。

(参考)
「児童小銃」(2005.2.25)
「日記のようなもの。」(2005.2.26)

(関連Entry)
性犯罪者の再犯率?

2004年11月30日

情報の共有

海外で笑われているぞ!定率減税廃止案

ここで紹介されているフィナンシャルタイムスのあまりにもまともな社説。毎日新聞なんかはFTの爪の垢を煎じて朝・晩、食前・食後に飲むように。

消費のおかげで経済がなんとかリセッションにならずにすんでいる時に、所得税の増税など、それを口にすることすら無責任の極みである。そう、確かに日本の財政の累積赤字は巨大である。しかし、財政赤字を管理できる規模に縮小するための、いかなる戦略においても、経済成長と健全なインフレーションは決定的要素ではないか。財政の地固めに先走ることは、致命的な失敗を招く。
各所で紹介がされていますし、この記事でも触れられてはいますが、こういった情報の共有はとても大切。同感だという方はどんどんリンクを張ってください。

蛇足だけれども、僕の記憶が確かなら(ちなみに自信あり)、現在小泉内閣の閣僚の一人である小池百合子(当時新進党)はテレビ朝日の「朝まで生テレビ」で当時の橋本内閣の消費税増税を批判し「とにかく経済オンチには辞めてもらいたい」と橋本龍太郎を罵倒していた(状況証拠)。ご存知の通り、小泉は財政再建原理主義の財務省の走狗なわけだけれども、「経済オンチでない」小池さんのことだ。場合によっては閣内不一致も辞さず、きちんと反対してくれるだろう。

ま、イヤミはさておき、今回の増税案はほんとにシャレにならないので、小泉はきちんとつっぱねるように。「消費税は今上げる状況にない」って主張してる張本人が、所得税の増税は賛成なんて、冗談は顔だけで十分だ。

ちなみに僕はこの記事をsvnseedsさんのEntry経由で知りました。こちらもクリップさせていただきましょう。

(追記)
小泉内閣の一員、麻生太郎(総務相)がまるで当該「海外ボツ!News」の記事かフィナンシャルタイムスの社説を読んだかのような「同じことやったらアホ」発言。

「景気回復の芽を摘んだ元凶は大蔵省(現・財務省)の財政再建原理主義。景気に与える影響を考えずに同じことを2度も3度もやったらアホだ。悲劇を通り越して喜劇だ」

2004年08月26日

日本の外交感覚

メモ。

毎日新聞「記者の目」(8月26日付)
アフリカからみた自衛隊派遣」(エンコードを日本語・自動選択にして下さい)

アフリカはこの10年、まさに世界の「紛争の巣」であった。民間人への残虐行為も後を絶たず、厳しい平和維持活動(PKO)が続いている。現在、世界で行われている16の国連PKOのうち7つがアフリカで行われ、実に85カ国が要員派遣している。ほかにアフリカ連合(AU)のような地域機構のPKOもある。世界の大勢は、アフリカの平和維持こそが「国際貢献」の最重要課題の一つだと認識している。

…(中略)…ヨハネスブルクに赴任する前、私は東京で自衛隊のイラク派遣の取材にかかわり、政治家や外務官僚から「国際社会が平和のために血を流す覚悟でいるなか、日本だけ何もしないわけにはいかない」と「日米同盟を通じた国際貢献」のための自衛隊派遣を力説された。

だが、今一度考えたい。85カ国が「国際協調」している世界一の紛争多発地に「部族対立」程度の認識で10年間背を向けながら、米国のイラク攻撃に合わせて自衛隊を派遣する日本の「国際貢献」とは何なのか。アフリカの紛争には「紛争当事者の停戦合意」を求めるPKO5原則を適用して派遣を見送りながら、戦争が続いているイラクへ新法まで制定して派遣する外交感覚は正常なのだろうか。

2004年08月07日

ジャイアニズム

石原慎太郎「民度低いからしょうがない」か。

たった2年前にはこんなお調子者の記事を書いていたお方がねえ(リンク先はキャッシュですが読めない方はエンコードを自動選択にしてみて下さい)。

不当に奪われた北方四島奪還のためにもロシアに勝て、などといえば、そんな関わりない話をスポーツに持ちこむなという人も多かろうが、国際関係の現実は実はそんな事象ででも相手の力を計り合って進められるものなのだ。故にもなのだ。
「北方四島」を「魚釣島」、「ロシア」を「日本」に置き換えてみよう。あら不思議、彼の「民度」が丸見えに。

(追記1)
蛇足ですが、2年前日本に負けたロシアの様子がこちら。日本食レストランは襲撃され、日本人旅行者は殴られたとのこと。ロシア政府の「反日教育」による「反日感情」の為せる業か!?

(追記2)
あささんのBlog「逃避日記」で、サッカーライター西部謙司さんのコラム「反日インフレーション-ピッチでしのぎを削った選手たちには、真実が見えている」が紹介されています。こちらもクリップさせて頂きましょう。 

About Memo

ブログ「Dead Letter Blog」のカテゴリ「Memo」に投稿されたすべてのエントリーのアーカイブのページです。新しいものから順番に並んでいます。

前のカテゴリはIraqです。

次のカテゴリはMovableTypeです。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。